10、ハンナ・アーレント カントの『判断力批判』

       の第一部は じつは政治哲学である。

 今回(2013.3.12)は、カントの終生の課題は、「政治哲学」に通じるものである、とのアーレントの提言をもとに、次のようなレジメを配布して、受講生の方々と「哲学者と政治」「人間と政治」について話し合いました。

 「自由にはフリー(free)とリバティ(liberty)の二つがある。この違いは何か。カントの自由はどのような自由なのか」という大変重要な問いが出されました。以下に、皆さんの間から出された声を加味しながら、お話ししたことを簡単にまとめておきます。

 フリー   何ものにも拘束されない自由。
 リバティ  拘束を振りほどく自由

 フリーは、へたをすると勝手気ままになる自由です。リバティは、リベラルに通じ、国や体制の拘束をできるだけ排除する自由主義に通じます。

 これに対して、カントの「自由」は、さてどうでしょうか。
                           (続く)

★カントは、社交性こそが人間を動物と区別する大事な要素だと考えた。社交性と政治との関係について、考えてみよう。

 ハンナ・アーレント カントの『判断力批判』の第一部は、じつは政治哲学である。
(『カント政治哲学の講義』(法政大学出版局、p.152)

 「あなた方は、『なぜ一体人間が現存する必要があるのか』という問いを提起しうるのと全く同様に、さらに続けて、なぜ樹木が現存する必要があるのか、なぜ草の葉やその他が現存する必要があうのか、等々と尋ねうることに注意すべきである。
 換言すれば、『判断力批判』の諸主題―自然の事実とか歴史上の事件とかいう特殊的な事柄、その特殊的なものを扱う人間精神の能力としての判断力の能力、そしてこの能力の機能する条件としての人間の社交性、すなわち、身体と自然的欲求とをもつという理由からだけでなく、厳密には精神的諸能力のためにも、人間が仲間に依存しているという洞察―これらの主題はすべて卓越した政治的意義を有しており、政治的な事柄にとって重要である。実はこれらは、カントがその批判の仕事(das kritische geschӓft)を片付けた後、年老いてからようやくそれに着手したものではなく、その遥か以前からカントの関心事であった」(『カント政治哲学の講義』(法政大学出版局、pp.14-15)

<解題>
 アーレントが、絶大な関心をもって取り上げているカントの「社交性(Geselligkeit」」とは、いかなる概念なのだろうか。辞書的には「1、(気のおけない)つき合い、交際。2、団らんの夕べ、楽しい集い」となる。カントはこの言葉に、人間と動物とを区別する「人間性」を見ている。「おそらく人間性は」とカントは続ける。「一方ではすべての人の普遍的同感(関与の感情)を意味し、また他方ではすべての人をしてこの人間性に普遍的に、かつ最も切実に与らしめる能力を意味する」「そしてこれらの特性が相合して、人間性にふさわしい社交性を成すのである」(カント『判断力批判(上)』篠田英雄訳、岩波文庫、p.341)。カントは動物の特徴を「索居性(狭溢性)」(基本的に個体で生活すること)であるとし、「かかる社交性があるからこそ、人間は動物の索居性から区別されるのである」と言うのである(カント、同)。
 アーレントは、「人間が仲間に依存している」事実を強調することによって、批判三部作の先に、カントが書きたかった、あるいは常に意識の中で繰り返し反芻していたのが、「政治力批判」とでも呼ぶべきものではなかったか、ということを匂わしているように思われる。それは、アリストテレスの「人間は社会的動物である」(アリストテレス『政治学』「アリストテレス全集15」岩波書店p.7)に通じる古くて新しい人間にとっての課題である。「社会的動物 (zoon politikon」は、「ポリス的動物」の訳であり、「政治的動物」とも「市民的動物」とも「国家的動物」とも訳される。