10、柳田国男-そのいろいろな顔

 多彩な顔をもつが故に、柳田国男に対してはさまざまな角度から、さまざまな評価が行われています。最終回では、家永三郎(歴史)、柄谷行人(哲学)、村井紀(日本近代思想)、鎌田東二(日本文化論)鶴見和子(社会学)の読解を通して、柳田国男の重層的な解析を試みることにいたしましょう。

 京都在住の鎌田東二は、物語の発生する「ところ」をテーマに、京都で生まれた『源氏物語』と、千キロ近く離れた遠野地方を舞台とする『遠野物語』を比較する試みを、民俗学者や宗教学者らを集めて行いました。その対談を核としてまとめたのが『遠野物語と源氏物語―物語の発生する場所とこころ』(創元社)です。鎌田はこのなかで、「京都の三山は遠野のようなものではないか。…北山の鞍馬山とか、そういう山々に遠野の世界が広がっているのではないか」と述べています(p.85)。

 家永三郎は、柳田があげている伝承資料の三種(1)目に映ずる「生活外形」(2)耳に聞こえる「生活解説」(3)微妙な心意感覚に訴えて始めて理解できる「生活意識」を通じて「柳田史学は既成史学の手を下し得なかった広大な未墾の世界を開拓し、既成の通史或は特殊文化史が見落としていた莫大なる史実を発見したのである」(「柳田史学論」『家永三郎集第四巻』岩波書店、p.272)と絶賛しています。
 『遠野物語』が書かれた明治43年、法制局参事官として、内閣書記官記録課長として「日韓併合」に関与していたことが、柳田にとって最大の問題である、とする村井は「『遠野物語』は植民地政策に関与することを余儀なくされた一青年官僚の「粗野を気取った贅沢」と評してよいものである」(『南島イデオロギーの発生』岩波書店、p.121)とまで断じるのです。そして、彼が平地人と比較して注目する「山人」が、台湾の山間民族「高砂族」から見出されたものとの声に同調し(p.126)、次のような主張をしています。
 
 柳田は「台湾山人」から日本の古代史を見いだしているのであり、その「歴史」は植民地「台湾」の現在とパラレルに見出されている。
もとより、「台湾山人」が柳田の焼畑民・「山神・山人」のモデルとして見いだされたのは、彼が「日韓併合」に直面し、その地の植民地政策を模索し、朝鮮にそれを見いだしていたからにほかならない。

 なかなか興味深いのが、南方熊楠と折口信夫との対比で柳田国男を論じた鶴見俊輔の姉・鶴見和子の考えでしょう。「折口は、日本人の集団的無意識、つまり古代日本人というものを探り、ある一つのかたちを与えた。それに対して南方(熊楠)は、人類の集団的無意識に参入しようとした。…そのまったく相容れないものをとり結ぶ役割を柳田は果たしているのではないか。…つまり、日本人の集団的無意識と人類の集団的無意識とをとり結ぶ、失われた輪が柳田国男のあの膨大な仕事の中に隠されているのではないかと私は考えます」(「創造の場としての柳田国男」『殺されたもののゆくえ』はる書房、PP.58-59)。
 
 日本人の集団的無意識とは何であり、人類の集団的無意識とは何であるのか、皆さんで考えたいテーマを提供してくれていますね。少なくとも、『遠野物語』からどのような「日本人の集団的無意識」が読み取れるか、皆さんの考えをきかせてもらえればありがたいです。

 最後に、柄谷行人の洞察を紹介しましょう。彼は13歳だった1885年(明治18年)に飢饉を体験し「飢饉と言えば、私自身もその惨事にあった経験がある。…飢饉を絶滅しなければならないという気持ちが、民俗学にかりたて、農商務省に入る動機になった」との回顧(『文學界』明治30年2月)に注目し、農政学さらに民俗学の研究に向かった根底に「飢饉の民を救う「経世済民」という儒教的理念がある」と分析します(p.49)。そして、中国で飢饉対策として行われていた「三倉」について論じた柳田の大学卒業論文「三倉沿革」に着目します。国家が飢饉に備えて貯穀する「義倉」、飢饉の際に穀物の価格を一定に保つために買い上げる「常平倉」、自治的な相互扶助システムであり協同組合・信用組合の原型である「社倉」の三倉のうち、柳田は「社倉」を重視した論を展開しているのです(p.59)。
 
 柄谷は、農村の貧しさは、むしろ人と人との関係の貧しさにあり、それを柳田が「孤立貧」と呼んでいることに注目します。柳田の農業政策は、農家が国家に依存せず「協同自助」を図ることである、と読み取る柄谷は、柳田の考えはイギリスの協同組合論に立ち帰るものであり、晩年に社会主義を唱えたJ・S・ミルの考えに近い、とするのです(pp.58-59)。それが、中国の「社倉」的な自治的互扶助システムでした。その柳田は、九州の椎葉村を旅行したとき、「富の均分というが如き社会主義の理想が実行せられた…『ユートピア』の実現で、一の奇蹟であります」と書き、それが「彼等の土地に対する思想が、平地に於ける我々の思想と異なって居るため」であると考えました(「九州南部地方の民風」)。

 柄谷は「柳田が椎葉村で見出したのは、平地とは異なる「土地に対する思想」、つまり共同所有の観念である。さらに重要なのは、生産における「協同自助」の思想である」(p.69)

 柳田が佐々木喜善と会って『遠野物語』を書いたのは、この直後である。柄谷はその「序」で柳田が「平地人を戦慄せしめよ」と書いたところを取り上げ「柳田が伝えて平地人を「戦慄」させようとしたのは、怪異談ではなく、山村に目撃した、別の社会、別の生き方」であり、それが相互扶助のもとで生きる「山人」、実際には思想としてしか存在しないが「山民」として存在することこそが「怪異」である、と締めくくっているのです(pp.72-73)。

 柳田が体験した飢饉が、具体的にどの地域でどのような規模だったのか、資料を見つけることができないので申し訳ないのですが、柳田が『山の人生』の冒頭で紹介している事件、子ども二人の首を鉞で切り落として殺した炭焼きの話について柄谷は、「これは飢饉によって起こった事件である。しかし、このような事件が起こるのは、飢えた者らが絶望的に孤立しているからだ。柳田の前にはいつも『貧しい農村』という現実があり、それを解決することが彼の終生の課題であった」(p.61)とも述べるのです。

 この事件については、以前お話ししたように、奉公先で盗みの疑いをかけられたことが事件につながったことが父親の打ち明け話(「新四郎さ」『奥美濃よもやま話』、哲学サロン7『山の人生』VS『奥美濃よもやま話』「新四郎さ」参照)で察せられ、民俗学者の谷川健一の指摘にあるように、助け合いの精神が行き届いている当時の農村で貧困のためにこのような事件を起こす可能性は少ない、ことから、柄谷の結論にはいささか無理があるように思われます。ただ柳田が、協同組合結成による一歩進んだ互助システムの構築を目指していたことは、注目に値するでしょう。
   
 さて、さて、皆さんはどの論考に最も惹かれましたか。それぞれのご意見をいただいて、最終回を多いに盛り上げて参りましょう。
 
 皆さんから出た興味深いご意見は、いずれまた、ご報告します。