10、自然の技巧と判断力の技巧

★2012年12月4日の講座「哲学の楽しみ」は、カントの二つの「技巧」(メカニックとテクニック)について、まず話をしました。

単純化すると

技巧のタイプ属性技術の種類典型的な産物
メカニック(機械的)自然の技巧物理的な力による形成宇宙
テクニック(人為的)人間の技巧アートに象徴される技による形成芸術

となります。
 しかし、実は、自然の技巧も人間の技巧も、メカニックとテクニックの両面をもっている、と考えるのが、この日に言いたいことでした。提案した新しい図式は

自然の技巧メカニック宇宙の形成
     テクニック生命の形成
人間の技巧メカニック?    
     テクニック芸術の形成

この「?」の箇所に入るものが何か、が問題になります。ドイツZDF・テレビ映像「フクシマのうそ」を題材としたのは、たとえば「原子力むら」のような集合体を形成するのは、人間集団をある「かたち」へと導くカント的な「メカニック」な力である、と考えたのです。

 東電を中心とした政界、官界、学者界、マスコミ界は、一つの共同利益体として、「原子力むら」なるネットワークを形成しています。そこには見えない力が働いており、組み込まれた人たちを特有の思考・行動様式で縛り、その「むら」の外の人間たちにさまざまな影響を与えています。「むら」の構成員は、意図して「むら」を作っているわけではありません。しかし、意図しない見えない力によって、特有の行動様式、たとえば「事故の隠ぺい」や「書類の改ざん」あるいは、「むら」の利益に立ち向かおうとする人間や組織に対して、ときに「復讐」とも思われる痛烈な一撃を加える、といった、行為を取ることになるのです。

 ドイツZDF・テレビ映像「フクシマのうそ」を見ていると、「むら」の発するこの見えない力が、恐ろしいほどの影響を社会に与えていることがよくわかります。まだご存知のない方は、是非この映像を見ていただきたいと思います。少なくとも、この「むら」を作り上げる要素の一つは「経済合理性」あるいは「経済優先性」であることも、このテレビ映像は教えてくれています。

 日本社会にはびこる「さもしさ」も、実は「原子力むら」と本質的には変わらない、人間集団に働くメカニックな力のなせる技なのです。メカニックな力に対抗するために私たちが開拓しなければならないのが、テクニックの技です。
 
 どのようなテクニックの技が、日本社会を覆っている無数のメカニックな力に対抗できるのか、この講座で少しづつ明らかにしていきたいと思います。

予定したテーマ
いかなる技巧・技法が、私たちを「さもしさ」から解放してくれるだろうか。自然の技巧から私たちは何かを学ぶことができるか。

自然の技巧と判断力の技巧
「…それにもかかわらず私は、自然的所産の形式を目的と見なし、かかる形式に関しては自然の原因性を自然の原因性を自然の技巧と名づけてよいと思うのである。すると自然の技巧は、自然の機械的原理に対立することになる…するとここでまず問題になるのが、自然の技巧はどのようにして自然的所産において[内的に]知覚され得るか、ということである。…それだから判断力は、本来技巧的なものである、また、自然は、判断力のかかる手続きと一致しまたこの手続きを必然的たらしめる限りにおいてのみ、技巧的なものと見なされるのである」(カント『判断力批判(下)』岩波文庫p.270)

★サブ・テクスト:ドイツZDF・テレビ映像「フクシマのうそ」
http://www.youtube.com/watch?v=8MZKxWLruZQ

 「さもしい」とは、誰も見ていなければ、本来ならすべきでないことを知りながら、「お得」の感情に誘導されて「やましさ」が隠蔽され、平気でその行為をしてしまうことである。肥大化した消費社会のなかで、人は個人性を失ったひとつの「大衆」と化している。安さを売り物のコンビニ弁当が、何万トンと捨てられ、安さの維持が発展途上国の搾取によって成り立っていることを、私たちは知りながら実質的に「ほうかむり」し、購買行動に変化は起きない。なぜなら、私たちには「見られている」という感覚がないからである。
 一時期、そこここの家の壁や塀に「見ています」と書かれた目玉マークが必ず見られた。ゴミの捨て場からトイレの便器の前に至るまで、人々の行動をいわば監視するこの「張り紙」は、見ていなければエチケットに反することでも平気でしてしまう「大衆」(つまり我々自身)の心(良心)に働きかけて、不埒な行為を抑制することが狙いだった。
 東電がこれまで料金体系から天下り人事に至るまで思うままにやってこられたのも、実は「誰も見ていない」という感覚が成せる技だったに違いない。それがいつのまにか、見せるべきこと(数々の原発内事故)も見せないような体質へと変貌して行き、東電内さらには「原子力むら」とまで言われる広範囲な領域において、「隠蔽の技巧」が発達し、蔓延していったのである。
私たちの「生活世界」は、電気料金を払う、コンビニ弁当を買う、といった経済行為から総裁選や国政選挙での投票といった政治行為に到るまで、すべての行動が、世界や日本のシステムと密接に結びついている。どの日常行動も個人としては「極めて微小」な効果しかもたないにもかかわらず、巨大な力となってシステムの「アウトプット」に影響を与え、与え得ることである。
 スーパーの安売り商品に「二酸化炭素が○○グラム消費されて、地球の温暖化が早まります」「発展途上国で、2年に一人の子供が飢え死にすることに手を貸すことになります」といった用紙が貼られたとしよう。それを手に取ろうとしながら、一瞬でもあたりの人を気にするような振る舞いが見られるならば、その瞬間、私たちは自分の「さもしさ」に気づいているのだ。さて、あなたはそのような時どうするだろうか。