10、AI君、君は死を用意されたいか?

 お一人のAIに対する独断と偏見メモ「AIオンチのひとりごとー人は何をやったらよいか」は、実に24項目にわたってAIに対する疑問と問いかけが書かれています。「人とは何か?」「AIとは何か?」から始まり、「主役は誰?人?AI?」で結ばれるこのメモには、「AIは自己認識ができるのか」「AIは死を認識できるのか」の問いも含まれています。

 「自己」の認識は同時に「他者」を認識することにつながります。「死」の認識も、「生」の認識と裏表です。
 
 別の受講生が、手塚治虫の作品に、こんな話があった、と紹介してくれました。看護師がロボットの病院に入院した男性が、違和感を抱きながら世話をされているうちに、そのロボット看護師にほのかな愛情を感じるようになります。退院の日、そのロボットを想いながら門を出る後ろ姿を、ロボット看護師もわけありげに陰で見送っていた、という話です。これは、このロボットに自我の芽生えがあったことを示しています。
 
 前回のAIロボット「アンドロイド観音マインダー」についての話を受けて、もう一人の方が紹介してくれたロボット開発の石黒教授の話「半人間、半ロボット」は、1982年公開のSF映画『ブレードランナー』を思い起こさせます。

 環境破壊で宇宙の植民地に移住せざるを得なくなった人類は、感情を持たない人造人間レプリカントを開発し、過酷な労働や戦闘に従事させます。ところが製造から数年たつとレプリカントに感情が芽生え、人間に反旗を翻す事件が続発するようになって、彼らの寿命が4年に制限されるようになります。死を知ってしまった「半人間」レプリカントの悲しみが、この映画から痛いほど伝わってくるのです。

 志賀直哉の自伝的な短編小説・随筆に『城の崎にて』(新潮文庫)は、「生」と「死」はすべての生き物にとって背中合わせの同等の存在であることを、強く意識させる作品です。直哉は1913年(大正2年)8月、素人相撲を見たあと山手線の線路かたわらを歩いていて、後ろから電車に跳ね飛ばされ大怪我を負います。東京病院にしばらく入院したあと、療養のために訪れたのが兵庫県・城崎温泉でした。宿から見た蜂の死骸や川で流されながら必死に助かろうとするネズミを見て「死」のことを考えていた主人公は、遊びに投げた石で小川のイモリを殺してしまいます。

 「可哀想に想うと同時に、生き物の淋しさを一緒に感じた。自分は偶然に死ななかった。イモリは偶然に死んだ」(同書p.36)「生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした」(同頁)

 「死ぬ」ようにプログラムされた「半人間」は、人間によって死をコントロールされる存在です。ブレードランナーの話のように、AIアンドロイドに自己コピーすることを禁じ、数年で脳にあたる機能が消滅するようにプログラムを組んでおくとしましょう。

 さらに、どこかのスイッチを押すと、自動的にAI機能が停止する仕掛けも作っておくことにしましょう。いたずらでも、かんしゃくを起してでも、人間が石を投げてこのスイッチを押してしまえば、彼(彼女)は志賀直哉のイモリのように”死ぬ“ことになります。
 
 皆さんは、AIに「死」を用意しておくべきだと思いますか、それとも…。