2、『フィガロの結婚』上演の秘密

 ボーマルシェの問題作『フィガロの結婚』に、モーツァルトが何を描きたくてオペラ化したか、その心のうちは残念ながらわかりません。しかし、ダ・ポンテの回想から、作曲と上演までのいきさつはかなりわかります。

 モーツァルトがザルツブルクからウイーンに来たのは1781年3月半ばのことですが、その2年後の1783年5月7日の父親宛手紙に、ダ・ポンテの名前が初めて登場します。

 「当地には、ダ・ポンテ師とかいう詩人がいます。この人は、作品を劇場用に書き直す仕事を山ほどかかえています。サリエリのために、まったく新しい台本を義務として書かなくてはならずーそれに2か月はかかるでしょう。そのあと僕のために新しい台本を書いてくれると約束してくれました」

 ダ・ポンテはモーツァルトの一年あとにイタリア・ヴェネチアからウイーンにやってきました。同郷人であるドレスデンの宮廷詩人の紹介でサリエリの知己を得、その仲立ちで皇帝ヨーゼフ2世の寵愛を受けるようになります。1783年には、イタリア語劇場付の詩人に任じられていました。

 モーツァルトは、1782年7月のオペラ『後宮からの誘拐』以来、目立ったオペラの作曲がなく、次の作品のための台本を探していました。しかし、この父親宛の手紙には「ぼくは軽く100冊はーいやそれ以上の台本を読みましたがーそれでもー満足できるのはほとんどひとつもありませんでした」と不満を漏らしています。

 モーツァルトは1782年8月4日に、コンスタンツェと結婚、私生活は幸せに包まれていました。何度も引っ越しを繰り返しましたが、シュテファン大聖堂のすぐ近くで、通称「フィガロ・ハウス」と呼ばれている住居に最も長く(2年半)住みました。オペラ『フィガロの結婚』もここで作曲されたのです。

 ダ・ポンテによると、「わたしの書く台本に作曲する気があるか」とモーツァルトに聞くと「大喜びでやりますとも」と答えたことになっています。モーツァルトは「作曲する許可がぼくには与えられない」と懸念を表明すると、
 「それはわたしの仕事さ」とダ・ポンテは答えたといいます。そんなある日、オペラの素材について話し合っているとき、「どうだろう、あなたならボーマルシュの喜劇『フィガロの結婚』をオペラに作りなおすのはそうむずかしくはないだろう」とモーツァルトが示し、ダ・ポンテは「なるほど」とそれを約束します。

 しかし、ヨーゼフ皇帝は「このコメディーはどうも品がない」とドイツ劇団に上演を禁止していました。どのようにして二人が、皇帝を説得して『フィガロの結婚』の上演にこぎつけたのか、今日のお話の楽しみといたしましょう。