2、なかにし礼「耳の垢の洗浄水」

 なかにし礼は、「天使の誘惑」「今日でお別れ」など、数々のヒット歌謡曲の作詞家としてもっぱら有名ですが、小説家さらには舞台演出から作曲まで手がけるという文字通り百面一臂のマルチ文化人です。クラシック音楽にも造詣が深く、お配りしたエッセイ集『天上の音楽・大地の歌』(音楽の友社)は、彼の随筆本のひとつですが、1999年の『題名のない音楽会』で初めて指揮を体験した話は、「頭の中で指揮をしている」私たち愛好家にとってなかなか興味深いものです(「指揮法は世界語」同書p.103-107)。

 指揮台に立ってまず困惑したのは、最初の一振りをどうやって始めたらいいのかわからない、ということでした。なんとなく始めてみても、オーケストラが出してくれる音はへなへなで話しにならない。彼に「やってみたら」と薦めてくれた指揮者が一振りすると、オケはそれこそ見事な音を出してくれる。なんでも「たたき三年」というそうで、音がでるまでに三年はかかるそうです。それやこれやで、指揮することの体力的な大変も痛感、指揮者が首、ひじ、肩の凝りや痛みに悩み、小沢征爾や岩城宏之が鞭打ち症になるとの話に納得するのです。

 四日間の猛特訓の末、『セヴィリアの理髪師』序曲を、貧血をおこしそうになりながら百人近い大オケを指揮し終えたのです。オケの音を意識の中のもう一つの耳で聴き、頭の中で理想の演奏を鳴らしつつ指揮をするうちに、なんとなくセヴィリアの理髪師に聴こえてきて、恍惚としてきたそうです。

 なかにし礼のこの指揮者体験で得た「もう一つの耳」と、頭の中で描いた「理想の演奏」の対比は、実に面白いですね。「もう一つの耳」とは何でしょうか。これは聞く側、つまり「聴衆の耳」にほかなりませんね。受け取る側との共鳴に芸の本質を見た世阿弥は、観客との一体感が生まれているときを芸のある種の極致としました。フルベングラーは、そこにもう一つ、ほかならぬ作曲家との「情熱の共有」をあげています(カルラ・ベッカー『フルトヴェングラーとの対話』薗田宗人訳、音楽の友社、p.15)。

 聴衆とオケからも学ぶ、ことも信条としたフルトヴェングラーに対し、自ら理想とする演奏をオケの団員すべてに”強要“したのがカラヤンでした。「オーケストラは全員私の敵だ」と岩城宏之が語った(「音楽の格闘技」『天上の音楽・大地の歌』p.222)そうですが、ウイーンフィルのティンパニー奏者が結局のところ指揮者バーンスタインの要求を聞かなかった逸話(同pp.220-221)は、指揮が「音楽の格闘技」にふさわしい逸話ですね。

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 さて、音楽が、指揮者だけでなく、楽器編成によってもかなり違うのだ、ということを、なかにし礼は、イギリスの指揮者ホグウッドが自ら編成した古楽器編成のエンシェント室内管弦楽団による演奏を例にあげています。そして、肥大化してきた現代のオーケストラ演奏に慣れている私たちの耳は「汚れている」と断じ、彼の楽団の演奏を「耳の垢の洗浄水みたいなもの」と形容しています(同書p.169)。
では、ホグウッド指揮・エンシェント室内管弦楽団による演奏で、モーツァルトの交響曲38番ニ長調『プラハ』k.504を聴いていただきましょう。

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