2、グリム公爵の驚愕:「ほんとうの奇跡…並外れた現象…」

 モーツァルト一家とともに、西方への旅を続けましょう。ゲーテが7歳のモーツァルトを見たフランクフルトでの滞在(1763年8月10日-8月30日)のあと、マインツ、コーブレンツ、ボン、ケルンなどを経てベルギーのブリュッセルに到着します(10月5日)。このブリュッセルから家主ハーゲナウアー宛の手紙(1763年11月4日)に、ザルツブルクの商人でのちにその息子が貴族に列せられたとき、モーツァルトからセレナーデを贈られたハフナーの名が見えます。このセレナーデが、あの有名な交響曲35番ニ長調『ハフナー』なのです。

 では、まずはこの曲を聴いてみましょう。あのロンドンのBBCプロムスにおける2013年のLive 録画です。ローマに本拠を置くサンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団による演奏で、指揮は同楽団の音楽監督を務めるSir Antonio Pappano(アントニオ・パッパーノ)です。
https://www.youtube.com/watch?v=735p9gQ7Okc

 モーツァルト一家は、11月15日にブリュッセルを後にし、四日目の18日にパリに着きます。道中の馬車や馬の調達から、パリにおける生活費の高さ、貴族の館に乗り入れるための特別な貸し馬車の高額、など、レオポルトは詳細な報告をしていますが、「高いお金を出しても誰にも会えない」ことをこぼしたりもしています。手紙も重さを量られて、超過すると「びっくりするほど高い郵税不足超過金をとられる」ので、薄い便箋を使って欲しい」と追伸で付け加えています(1763.12.8 家主ハーゲナウアーへの手紙)

 当時フランスはルイ15世の治世。パリへと向かうモーツァルト一行が、破損した馬車の車軸を直すために立ち寄った修道院で、王太子ルイの妹ルイーズとナンネルが親しくなり、やがて王太子に作曲を頼まれるという設定で組み立てられた映画が、ルネ・フェレ監督の『ナンネル・モーツァルトー哀しみの旅路』(2010年、フランス)です。

 この映画では、モーツァルト一家が西方大旅行に使った馬車(これはウイーンで、皇帝フランツ1世とマリア・テレジアが臨席した御前演奏のほうびとして頂戴した450フローリンのなかから、100フローリンを出して買ったものです)や、旅の様子、訪れたフランツ1世の弟カールのけちんぼう振りなどが、レオポルトの日記をほぼ忠実に取り入れています。

 お配りしたレオポルトのハーゲナウアー宛の手紙を参照しながら、まずはこの映画を観ていただきましょうか。

 車軸を直すために立ち寄った修道院で、モーツァルトとナンネルが演奏しているのが、ヴァイオリン・ソナタk6~k9のどれかだと思います。ただし残念ながら、王太子の妹ルイーズとの友情や、王太子とナンネルの間に流れるほのかな愛情関係など、映画で描かれているような事実は伝えられていません。

 パリの滞在では、「オルレアン公爵秘書グリム(のちに男爵、ザクセン=ゴータ フランス大使)」との出会いが重要でしょう。ルソーとも親しく、百科全書派と交流のあったグリムは、1753年にザクセン=ゴータ皇太子妃の庇護のもと、『文芸・哲学・批評・通信』なる時事通信を始め、12月1日付け同通信に次のような一文を載せているのです。

 ほんとうの奇蹟というものはたいへん珍しいものなので、それに出会う機会をもったならば、お話する必要がありましょう。モーツァルトというザルツブルクの楽長が、世にも愛らしい二人の子供と当地に着いたところです。
…(全文は資料参照)

mozart in Tanble

 グリムが簡単の言葉とともに描き出している音楽会は、大がかりな楽団をかかえていたコンティ公ルイ・フランソア・ド・ブルボンの居宅宮殿《タンブル》で行われたもので、画家ミシェル・バルテルミー・オリヴィエの絵によってその雰囲気がわかります(左)。左端で、チェンバロを弾いているのが少年モーツァルトです。絵のタイトルは「イギリス風の茶会」で、レオポルトの手紙にもあるように、このころのパリはファッションから生活スタイルまで、イギリス風がはやっていたのです。

 大人になったモーツァルトが、今度は母と二人で就職運動のためにパリに訪れたとき、父の紹介状をもとにグリムを訪れることになります。レオポルトは、パリ社交界の実力者であったグリムが、モーツァルトのために尽力してくれることをあてにしていたのですが、子どものころのモーツァルトをあれほど絶賛していたグリムは、残念ながらあまり協力的ではありませんでした。
ザルツブルクのレオポルトにあてた有名な手紙(1778年7月27日付け)があります。

 「ご子息はあまりにも人を信じやすく、積極性に欠け、騙されやすく、立身出世に通じる方策にはあまりに無関心です。当地では、頭角を現わすには、狡賢く、厚かましく、ずぶとくないといけません。ご子息が立身出世をなさりたいなら、才能は半分でもよいが、倍の世渡り術を望みたいものです」

 パリへ再び向かったモーツァルトは、父の故郷アウグスブルクで演奏会を開いています。実はそのとき、グリムが会場に来て演奏を聴いていたのです。それも、演者モーツァルトのすぐそばにいたのです。しかし、モーツァルトも同行した母のマリア・アンナも彼の存在に気づきませんでした。グリムはそのことがよほど癇に障ったらしく、レオポルトへの手紙に「お二人とも私の存在に気づきませんでした」と、わざわざ書いているのです。

 つまり、一度パリで出会った人、それも、少年モーツァルトの才能を最大限に評価したその張本人の存在を気づかないなどということは、パリの社交界では、最大限の失礼にあたるのです。そういう「気遣い」の出来ない人間は、パリでは評価されないことをグリムはレオポルトに示唆しており、暗に、モーツァルトを非難しているのです。

 レオポルトは、この手紙のことをパリにいるモーツァルトに伝え、グリムを大事にしろ、と忠告するのですが、まっすぐなモーツァルトは、逆にグリムに反発し、軽蔑し、「蹴飛ばしてもいい奴」「見せかけだけの人」とまで書いています(1778年9月11日。父への手紙)。