2、ショーペンハウエル  

          カントの言う「物自体」とは意志である。

2013.1.15

この日の講座は、ブログ「趣味的偏屈アート雑誌風同人誌」

http://winterdream.seesaa.net/

ライターの一人H.H.さんが紹介してくれた

 六車由実『驚きの介護民俗学』(医学書院、2012年3月)

をサブテクストとし、受講生の方々に第一章「老人ホームは民俗学の宝庫」を読み進めてもらうことから始めました。
 この本は、大学で8年間民俗学を教えていた筆者が、特別養護老人ホームの職員となり、民俗学の聞き書きが高齢者のケアに有効であることを知って、実践しながら介護の本質に迫っていくという内容です。きっかけは、利用者の一人が「こんな年寄りになって、ただ生きているのは地獄同然だ」とのつぶやきを耳にしたことでした。聞き書きを始めるとやがて、軍隊から帰ったあとに農業をしながら牛を飼い、「馬喰」との駆け引きなどを詳しく話すまでになりました。よく知らない世界に素直に驚く筆者に、その人は目を輝かせ、「生き地獄」発言の人とは別人のようになっていき、ついには「自分の一代記を書いてほしい」と頼むまでになります。
 以下、老人ホームのさまざまな人たちとの聞き書きの記録が続いていきます。
実はこの本は、ショーペンハウエルの考え方が、日常の現場で現れている良い例になっているのです。さて、これを読んだ受講生たちは、どのようにショーペンハウエルとつなげてくれるのでしょうか。
 
 一人は、潜在意識が顕在意識を支配するというフロイトの考え方と反対の顕在意識が潜在意識を支配する、という考え方を紹介しました。
 日本が無縁社会になっていることを常々問題意識としてもっている人は、この老人ホームの問題を無縁社会の視点で見るべきである、と言いました。
 ほかの受講生の人たちの声にじっと耳を傾けていた一人が、

 「いやね、話を聞いてもらえるとすごく気持ちがいいんですよ。そんな経験、ありませんか」

 とさりげなく言ったのです。
 これは重要な発言です。「驚きの民俗学」とタイトルをつけているように、この本のポイントは聞き書きをしている著者が、ケアを受けている高齢者の話に、絶えず驚きを示していることでしょう。その驚きは、存在感の無い、ほとんど無のような人たち、が、いったん発言を始めると、実に多様な人生を生きてきていることを発見したことによるものです。聞き書きを受ける人たちからすれば、筆者が彼らの人生に「意味」や「価値」を見いだしてくれたことになります。「生き地獄」発言に象徴されるように、高齢でケアを受けている人たちは、自分たちの存在に意味や価値を見いだせなくなっています。それは、自分たちを無へと貶めるものです。社会的に見ても、彼らは「忘れられた」人たちであり、その存在は無に等しくなっているのです。
 しかしそれは無ではありません。カント的にいえば、それはマイナスの形で彼らの意識の底に沈んでいるのです。民俗学者の聞き書きは、マイナス化して見えなくなった彼らの人生を目に見えるプラスの形へと変えてあげたのです。これこそが、カントの言う負の顕在化であり、それを実現したのが民俗学者によって誘われた聞き書き対象者の意志なのです。
 本人が充実した人生を生きていると思っているうちは、本人にとってその人生は有です。その人生が何もならなかったと思うようになれば、それは「空(むな)しい」の無になります。しかし、実際は無ではなく、マイナスの人生として沈んで見えなくなっているに過ぎません。これがショーペンハウエルの言う「無と有の相互反転」にほかなりません。
 老人ホームの高齢者に限らず、だれもがいつかは、心の底から自分の人生を吐露したい誘惑に掻き立てられるのではないでしょうか。
 この吐露は、ソクラテス対話法の産婆術がもたらす「真理の覚醒」につながるものなのですが、続きは、いずれまた。

問い: 日常のなかで無数の意志が無を有に変え、逆に有を無へと落とし込んでいるのではないだろうか。

テクスト: ショーペンハウエル  カントの言う「物自体」とは意志である。
(『意志と表象としての世界(正編Ⅲ)』白水社、p.275)

「なるほどカントは、現象こそ表象としての世界であり、物自体こそ意志であるという認識には到達しなかった。けれども彼が示したのは、現象している世界は、客観によって条件づけられているのと同じほど、主観によっても条件づけられているということである。…彼は物自体をじかに認識したわけではない。けれども彼はこの認識に対して、偉大で画期的な歩みを進めたのである。それは彼が、人間の行為には否認することのできない道徳的な意義があり、この意義は現象のもろもろの法則とはまったく異なっていて、それらに依存せず、それらにしたがって説明することもできず、むしろ物自体にじかに触れている或るものであると述べることによってであった」(ショーペンハウエル『意志と表象としての世界(正編Ⅲ)』白水社、pp.24-25)

<解題>

 「主観がなければ客観もない」というカントの提題は、私たちは世界の中にあるという従来の世界観を、世界は私たちの中にある、と逆転させ、世界と私との関係を「コペルニクス」的に転換した。しかし、カント哲学の最大の欠点は、世界がいかにして生成・変容してきたかについては、語られていない、ことである。カントの信奉者だったショーペンハウエルは、カントの功績を認めながら、この不足に物足りなさを感じていた。
 ショーペンハウエルの言いたいことは、『意志と表象としての世界』の末尾で語られていることに集約される。「意志がないなら、表象もなく世界もない」。彼が意志による万有の生成を考えるに至ったもとは、カントが考えた「無=マイナス」「存在=プラス」の概念だった。カントによれば、「すべての消滅は負の生成」であり、「Aが生じれば、-Aも生じなければならない」(『負量の概念』理想社 カント全集第二巻、p.249, p.254)のである。ショーペンハウエルは、存在を無へ、無を存在へ、とそれぞれ転換させる源こそ「物自体としての意志」である、と考えたのだった。
 「一般に肯定的とみなされているもの、これをわれわれは存在するものとよぶ。その否定は無という概念によってその最も一般的な意味で表明されている。この存在するものとよばれているものこそ表象の世界である。わたしはこれが意志の客体性であり意志の鏡であることを証明した。…意志の否定、廃棄、転換は、意志の鏡である世界の廃棄でもあり消失でもある。われわれがこの鏡のなかに意志をもはや認めないときには、…もはや意志には「どこ」も「いつ」もないのであるから、われわれは意志が無に化してしまったといって嘆くのである。もしわれわれにとって逆の立場が可能であるとすれば、符号が交換され、われわれにとって存在するものは無として、無は存在するものとして示されるであろう」((ショーペンハウエル『意志と表象としての世界(正編Ⅱ)』白水社、pp.402-403)