2、パスカルの問い 私はどこにいる

 前回は、宇宙から「あなたは、いま、どこにいるのか」の問いかけに対して、銀河系内のどの時間帯にどこに位置しているか、について考えました。今回は、デカルトと同時代人で、デカルトを強く批判したパスカル(1623-1662)が投げかけた哲学的な問いについて考えてみたいと思います。パスカルと言えば、何と言っても「考える葦」で有名ですね。

「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だがそれは考える葦である」(『パンセ』(前田陽一・由木康訳、中公クラシックス、347)。

この次348にもう一つの名言があります。

「空間によって、宇宙は私をつつみ、考えることによって、私が宇宙をつつむ」

物理的に宇宙の外に出てはいないにしても、前回のカール・セーガンも、この講座のタイトルに登場しているあのホーキングも、思考の世界で宇宙をいわば「掌の中」に入れているわけです。

 さて、今回は、パスカルのもう一つの深遠な問いから、「わたしはなぜ、いま、ここにいるのか」について考えてみることにしましょう。

「私は、私を閉じ込めている宇宙の恐ろしい空間を見る。そして自分がこの広大な広がりのなかの一隅につながれているのを見るが、なぜほかのところでなく、このところに置かれているか、また私が生きるべく与えられたこのわずかな時が、なぜ私よりも前にあった永遠のすべてと私よりも後にくる永遠のすべてのなかのほかの点でなく、この点に割り当てられてられたのであるかということを知らない」(『パンセ』194)

 この問いは、おそろしく深遠です。たとえば私たちが日本という国の現時点に存在していることに必然性があるか、つまり、私たちが映画「コンタクト」で描かれたいて座のベガの惑星系にいないのはなぜか、を問うているのであり、江戸時代の西鶴の時代に生を受けなかったのはなぜか、を問うているからです。この考え方は、私たちの世界・宇宙が時間と空間の重なり合った多層構造をしており、すべての時間と空間があらゆる点で同居している「多世界宇宙」の考え方に通じてもいるのです。

 あたかも宇宙の外に「いのちのクラウド」が存在し、そこから「いのち」がさまざまな時間帯のさまざまな場所へと運ばれて、誕生するのが、その時代のその場所の「私」となる、という図式です。「私」が「いま」「ここ」に存在することに何らの必然性もなく、極端に言えば、「いのちのクラウド」からコウノトリが運んできた、「いま」「ここ」に存在する「偶然の私」、ということになるのです。

 考えてみてください。縄文時代の竪穴式住居で、薪を燃やして暖をとり、火炎式土器で煮炊きする自分の姿を。1650年1月、デカルトを迎え入れて朝5時から講義を受けるスエーデン女王クリスティーナである自分の姿を。

 パスカルの問いは、そんな幻想が現実かも知れない、との楽しい夢を見させてくれます。

 さて、みなさんは、どの時代の、どこに、存在したいと思いますか?