2、ベルクソンと新渡戸稲造

 前回は、すでに皆さんがベルクソンについて、それぞれの知見をお持ちであることがわかりました。「社会集団のあり方を生物の細胞集団に照らして考察しているのではないか」「ラッセルが疑問を呈しているベルクソンの精神と物質の考えかたについて、どのようなものであるのか知りたい」「人間は今いる位置に止まってはいけない、もっと未来を見つめていけという、ある意味では究極の人類愛のようなものがあるのではないか」「ベルクソンなら、この核危機の時代に、どのような形のヒューマニズム論を展開するだろうか」「ベルクソンの影響を受けたドゥルーズの『差異について』と『ベルクソニムズ』を読んでみました。新しいものはどこから生まれるのか。流れのような持続からポンと生まれる、ということだけはわかりましたが、それが何か、が課題です」「野口幹雄さんの「『道徳と宗教の二源泉』が現代に残したもの」をネットで見つけて、なるほど、そうかとある程度わかった気になりました。蟻や蜂に比べると、人間は知性がある、云々、と19ページほどの解説です」
 
 さて、本日は、前回お配りした新渡戸稲造によるベルクソンとの対話(新渡戸稲造全集第1卷「東西相触れて」pp.321−331哲人ベルクソン氏)が材料です。新渡戸稲造は英語で著した『武士道』によってその名を知られていますが、国際連盟の事務次長として、アインシュタインやキューリー夫人、そしてベルクソンという歴史的な知の巨人と交流がありました。彼の武士道を読めば、武士道の極意が言葉では表されないところにあることがその本質であることを、新渡戸が最重要にしていることがよくわかります。

 特に、柳生但馬守が門弟から「技の極意」を尋ねられた時に、それは禅の教えに譲るとし、新渡戸はこれを「言語による表現の範囲を超えたる思想の領域に、瞑想を以て達せんとする人間の努力を意味する」と、解説しているところ(p.35)はまさにベルクソンの「持続」と「飛躍」に通じるのではないでしょうか。
 
 言葉とは、精神の中に流れている思考が切り取られて形になったものです。精神の流れはアナログの持続であり、断片に過ぎない言葉はデジタルです。本来の「悟り」は持続的な状態ですが、誰もが瞬間的な悟りの感覚を体験することができます。その瞬間が「あっ」なる感覚であり、一瞬に感じる爽やかな感覚です。それは、持続する悟りの状態が、ポンと飛躍して出現するまさにベルクソンの「エラン・ヴィタル」(生命の飛躍)にほかなりません。

 剣の達人は、身体が誰にも触れさせないような持続的な動きを身につけた時に生まれます。真の悟りに達した仏僧の状態は「心身脱落」と表現されます。

 この別世界への移動者が行う秘跡を「奇蹟」と呼べると思います。ジャンヌ・ダルクの行った奇蹟とベルクソンの「エラン・ヴィタル」との関係を問うたのが、「哲人ベルクソン氏の対話部分(pp.326-331)の核心でした。ベルクソンは、宗教的な秘跡と「エラン・ヴィタル」とを結びつけることに抵抗があるようですが、両者は通じていると考えていい、と思うのですが、皆さんはどのようにお考えでしょうか。

 次回は、第一章「道徳的責務」を読んでいくことにしたいと思います。