2、ヨーゼフ2世とモーツァルト

 今回(2013.1.25)はレジメの予定を変えて、皆さんの関心が高いオーストリア皇帝ヨーゼフ2世とモーツァルトの関係について、モーツァルトの手紙を中心に話をしました。

 モーツァルトは、ザルツブルクの大司教コロレドとの軋轢が頂点に達し、1777年8月28日付で辞職を認められ、ウイーンでフリーの音楽家として自立することになります。宮廷に出入りするようになり、皇帝ヨーゼフ2世のおぼえも良く、いずれはウイーン宮廷楽団の楽長になる未来図を描くようになっていきます。それは成功するでしょうか。モーツァルトと父・レオポルトの手紙から、ヨーゼフ2世とモーツァルト父子との心理戦を覗いてみることにしましょう。

1、クレメンティとの競演

 1782年12月のクリスマス・イブに、ヨーゼフ2世はモーツァルトとクレメンティとのピアノ演奏競演を宮廷でやらせます。このとき、モーツァルトは「皇帝はぼくにたいへんご満悦だった」と次のように父・レオポルトに書いています(1782.1.16)
「(ぼくの弾くフォルテピアノは)音が狂っていて、鍵(キー)が三つも動かないのですがー皇帝は『かまわない』と言われました。-ぼくは善意に解釈すれば、つまり、皇帝はぼくの音楽の技術と知識をすでいご存知なので、外国人をちょっと試してみようとなさっただけのことだと思いました。
 それに確かな筋から聞いたところでは、皇帝はぼくにたいへんご満悦だったそうです。皇帝はぼくにとても好意的で、個人的にいろいろと話してくださり、ぼくの結婚のことにも触れられました」

 同じ手紙の中で、モーツァルトはクレメンティのことを「この人は律儀なチェンバロ奏者です。-でも、それだけのことです。-右手が非常に巧みに動きます。-彼の見せ所は、三度のパッサージュです。-その他の点では、趣味も感情もまったくありませんし、たんに機械的に弾くだけです」と酷評しています。

 しかし、モーツァルトは、内心、クレメンティの力量を買っていた(いや、ライヴァルとして怖れていた、のかもしれません)のではないでしょうか。ホロビッツが演奏している次の曲を聞いてみて下さい。

 http://www.youtube.com/watch?v=yAlUpCzrcwE
 
 これはモーツァルトとの競演の場で、クレメンティが演奏した自作のピアノソナタ B flat Op 24です。
どこかで聞いたことのあるリズミカルで単純なメロディが繰り返されていませんか?次の曲を聞いてください。

 http://www.youtube.com/watch?v=s2Gedb05J5M

 わかりましたね。そうです。モーツァルトの『魔笛』の序曲です。

 モーツァルトは、ライヴァルの曲を、はるかに高いレベルでしっかり”盗用”してしまったのです。

 クレメンティとの競演については、海老沢敏『モーツァルトを語る』(音楽之友社、1992.11, pp.74-87)に詳しいので、ご参照ください。

2、モーツァルトの打算

 モーツァルトはウイーン宮廷への奉職を第一に考えていましたが、もっと良い俸給を支払う貴族がいたら、そっちのほうに行く、という打算的な考え方をしていることが、手紙から伺えます。そのころ、彼が皇帝に仕えるという噂が、ザルツブルクにまで広がっていました。
「さて、ちょっとした定収入について、ぼくの意見をお伝えしましょう。…二番目は(ぼくの予想ではこれが最高額になるでしょうが)皇帝御自身です。―驚いたでしょう? …皇帝がぼくにしてくださった話はいくらか希望がもてます。」(1782.1.23)
「ぼくがきっと皇帝に仕えることになるだろうという噂についてあなたは書いていますが、これについてぼく自身何も知らないので、何もお知らせしませんでした。-こちらでは町中その噂でもちきりで、すでに何人もの人からお祝いを言われたのは事実です。ーそして、このことが皇帝のもとでも話し合われ、陛下もひょっとしてお考えかもしれないと、ぼくも喜んで思いたいですね。…
 でも、これまでぼくのほうで何も努力しないでも事が運ばれてきた以上、結果もおのずから出てくるはずです。-自分から働きかけたりすると、たちまち給料が下がりますからね。なにしろ、皇帝は締り屋ですからー。もし皇帝がぼくを雇いたいと思うなら、それ相応にお金を払ってくれなくてはいけません。-皇室に仕える名誉だけでは足りませんよ。-実際、皇帝が1000フローリン支払い、どこかの伯爵が2000フローリン支払うというならーぼくは皇帝の申し出を丁重にお断りして、伯爵のところにいきます」(1782.4.10)
 
 結局、モーツァルトの奉職は実現せず、王室宮廷音楽家の称号が与えられたのは、それから5年以上経た1787年12月7日のことでした。プラハで『ドン・ジョヴァンニ』を書いたあとで、年俸は800フローリンでした。亡くなった前職のグルックの年俸が2000フローリンで、モーツァルトは姉のナンネルあての手紙に「たったの800フローリンです。-とはいえ、だれも皇室でこれだけ多くもらっている人はいません」と書いています(1788年8月2日)。