2、太陽の比喩―善のイデアはどこにあるのか

 今回は、『国家(下)』の第六巻一一~一九(497A-509B, p.57-p.94 )に入ります。ここでは、善のイデアとして、まずその子どもとしての「太陽」が比喩としてあげられています。「線分の比喩」から「洞窟の比喩」へといたる比喩三部作の第一弾ということになります。これまで、大事な徳として学んできた「正義」「節制」「勇気」「知恵」だけでは不十分であるとし、「学ぶべき最大のもの」こそ「善の実相(イデア)」である、とされます(505A, p.80)。さらに、すべての事柄について知っていたとしても、善については何も知らないとしたら、それこそ「何の足しにもならない」と、議論は進んでいきます(505B, p.81)。

 善は、「すべての魂がそれを追い求め、それのためにこそあらゆる行為をなすところのもの」(505E, p.83)と定義されます。しかし、「それがたしかに何ものであると予感はしながらも、しかし、そもそもそれが何であるかについては、魂は困惑してじゅうぶんに把握することもできず、…動かぬ信念をもつこともできないでいるもの」(同)だというのです。「それでは善とはなんであるかについて、正義や節制について話してくれたように、説明してほしい」とせがむグラウコンに対して、ソクラテスは「現在の調子ではぼくの力に余ることのように思える。そのかわり、<善>の子供にあたると思われるもので、<善>に最もよく似ているように見えるものを…語ることにしたい」(506E, p.86)と、もちだしたのが太陽なのです。

 太陽の光が、物を見えるようにし、それらを生成・成長・養い育むように、善のイデアはすべての認識・行為の原因であり、それらを現実化させるだけでなく、育んでいく、とプラトンは太陽の比喩を使って結論します(509B, p.94)。そして、その善のイデアがどこにあるかというと、「実在のかなたに超越して存在する」(同)とするのです。
二つの問いかけをしてみることにしましょう。

1、 善がすべての認識・行為の原因である、とする考え方について、どう思いますか。

2、 善のイデアがあるとした場合、それは私たちの中にある、と考えることはできませんか。

 私は、1については保留しますが、2の善のイデアは、私たちの中にあるのではないか、と考える一人です。そしてなぜか、昨年の会食の折に、中国人研究者の言葉「心は流れである」に受講生の一人がいたく感激した話を思い出すのです。

 「心が流れ」であるとしても、流れを抱える川としての同一性をも持っていることでしょう。そこからは、変転・変化を本質とするヘラクレイトスと、万有の本質を一にして普遍の「存在」としたパルメニデスの合一があります。この哲学観を、フランスのブランド「エルメス」が唱えている(エルメス社長のエルメス広報誌『HERMES』春夏号巻頭言、2005)ことは、興味深いことです。

 エルメスのイデアは、伝統が作り上げてきたその作品の中に結実しています。めまぐるしく移り変わる流行のなかで、エルメスは多様に変化しながら、なおかつエルメス性を常に維持しています。そのイデアは、作り手の職人の中にあって受け継がれていく、とは言えませんか。エルメスの善とは、そのイデアへと絶えず集団の行為が収斂していくことです。

 さて、皆さんの考えを聞かせてください。善は太陽が地上のすべてを育むように私たちの認識と行為の原因だと思いますか。その善のイデアは、どこにあると思いますか。