2、朝ドラ「あさが来た」のソクラテスとは誰だ

 前回は初春の辞として、「(絵や書などの」気韻生動」「(谷崎潤一郎の『春琴抄』」「(シモーヌ・ヴェーユの)『ギリシアの泉』」などが出され、「まわりを変えるためには、まず自分が変わらなければならないことに思い至った」「新しい年が来たとき、これからは一日一日を向かい合って生きようと思いました」などが語られました。また、ある受講生が祈りか祝詞のような古代ギリシアの音楽CDを見つけ、聞かせてくれました。
 
 今日は、前回に課題として残した知の形式「パイデイアπαιδεία」と、遊びとの関係について考察してみましょう。パイデイアがどのような知の形式であるかを知るのに、理解しやすいのは無知の形式から見ていく方法です。無知には「アグノイアἄγνοια」「アマチアἀμαθία」そして「アパイデウシアἀπαιδευσία」があります。「アグノイア」は「まったく何も知らない無知=無知蒙昧」、「アマチア」は「素人が専門的なことを知っていると思い込んでいる無知=思い上がりの天狗」、そして「アパイデウシア」は「ひとつのことに通じているとすべてのことに通じていると思い込む無知」と単純化できるでしょう。ソクラテスが政治家や手工業者、詩人らを訪れて感じた「無知」が「アパイデウシア」にあたり、「無知の知」はパイデイアにあたるといっても良いかもしれません。
 
 遊びを通した教育がパイデイア型の教育だ、とプラトンは言っていますが、遊びが全体を見通す知になぜつながるといえるのか、考えてみましょう。ここで登場するのが、朝の連続テレビ・ドラマ「あさが来た」の「新ちゃん」こと新次郎です。ヒロインの朝子の亭主である新次郎は、一人娘から「何で、お父ちゃんは働らかへんの。何でだす。何でだす」と事あるごとに問いかけられます。大阪の有力両替商、加野家の次男坊として生まれた新次郎は、商売にはとんと関心がなく、謡や三味線といった芸事にばかり精を出し、あっちへふらふら、こっちへふらふら、毎日遊び歩いています。「遊び」こそ、彼の「身上」というわけです。
 

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 ところが一見遊び人の新次郎が、旗を振ってもなかなか動かない保守的な大阪商人を、芸事の場や飲み会の場で、それとなく「いま何をすべきか」を説き、彼らをその気にさせてしまう不思議な力を見せるのです。遊んでばかりいる彼のほうが、商売、商売と計算高い商人たちよりも、時代を読むのにはるかにすぐれ手いるのです。彼の知こそがパイデイアである、と言いたいのですが、みなさん、どう思いますか。
 
 車の運転に遊びが必要なのは、突然の振動や急な車体の変化に、対応するためです。その根幹は「自由度」の確保にあります。ソクラテスは、何者にも拘束されない自由人でした。アテナイ市民なら半ば義務として求められる公職的な仕事にも、彼はほとんどつきませんでした。さて、新次郎をソクラテスに見立てる考えについて、みなさんのご意見をお聞かせください。