2、未来に「いのち」を注ぐこと

 前回は、新型コロナウイルスによる新しい日常生活、「新常態」について、皆さんそれぞれのお話をしていただきました。「テレビの前のごろ寝生活で4キロ体重が増えた」「この際に断捨離をしてたくさんの過去の自分に出会えた」「一日中家にいて人と話さないと、あごが固まってしまうことに気づき、音読を始めたら顎が元に戻ってきた」
 
 「空も地上もガラガラで空いていたので、逆発想で各地を泊り歩いた」-などなど、楽しい“新常態”が聞かれました。「新常態などない。日常は、どのようになろうと常態だ」「新常態?バカバカしい。2年もたてばワクチンが開発されて普通に戻る」との声も。

 『沈黙の春』のレイチェル・カーソンや、汎神論の哲学者スピノザ、子どもの目線で実践授業を進めた教育学者の林竹二、らの名前があげられました。彼らに共通しているのは「すべての生命(いのち)は対等である」との精神に満ちていることでしょう。
 
 地球の生態系を化学的農薬が脅かしていることを早くから警告していたレイチェル・カーソンは「私たちの住んでいる地球は人間だけのものではない」(『沈黙の春』新潮文庫p.346)、
林竹二は「リスだのツグミのほうが自然の原住民。だから、原住民に対しては後から来た人間は遠慮しなければならない」(『教えることと学ぶこと』倫書房、p.73)と、含蓄ある言葉を残しています。

 「エコロジーの思想」の副題がつき、スピノザ、ハイデガー、アリストテレス、さらに仏陀や芭蕉まで多彩な歴史上の人物が名を連ねる『環境の思想家たち』(ジョイ・A・パルマ―編、みすず書房刊、上下2冊本)に通底するのは、「いのちへの共感」がエコロジーの基本であることを指し示しています。

 「スピノザの世界像においては、すべてのものはすべての他のものと結びついている」(同書上巻p.90)。「芭蕉の作品のすべてを支配しているのは、あらゆる物にたいする思いやりにみちた共感」(同p.109)「どんな自然物にも何か驚くべきところがあるものだ」(アリストテレス『動物部分論』に登場する言葉、同書p.30)。

 「いのち」は私たちに与えられた使える時間であり、それを誰かのために「注ぐこと」の重要性を、日野原重明さんは心を込めて10歳の小学生のクラスで呼びかけました(『いのちの哲学詩』pp.10-11)。

 東日本大震災の時に開いていた「ハイデガー講座」で、「思いやる」ことの大事さをハイデガーが示していたことを紹介しました。水やりを忘れていると花が枯れてしまうように、私たちの震災の被災者への「想い」が消えてしまうと、被災地は忘れ去られ、その地の「いのちの輝き」が色あせて行きます。日野原さんの「いのちを注ぐこと」は、ハイデガーの「思いやる」ことに通じていると思います。

 前回、新型コロナ感染拡大の中で、過去と現在の「無の開示」を体験している、との話をいたしました。未来は、どうなるか「わから無い」無の大海であり、私たちの日常とは、日々その無の中に「いのちを注ぎ」、「有」を作り上げて行く営みだと思います。新型コロナウイルスがもたらした「新常態」は、「いのち」の「未来への注ぎ方」を、私たちに問いかけているような気がいたします。