2、理性は正義をもたらすか

 前回は、ディケンズの『大いなる遺産』から、「不正義ほど理解できるものはない」という言葉に対するセンの共感を題材に、日常生活のなかで「どうにも腑に落ちない」事柄についてみなさんと議論しました。
 そこで出された多くの例は、いずれも

 マナー
 エチケット
 ルール
 法律

 のどれかに違反するという意味で、不正義、と我々が感じると言っていいでしょう。「法」はギリシア語で「ノモス」と言いますが、これはもともと「慣習」とか「掟」といった意味で、共同体で習慣的にでき上がってくる「決まり」を意味します。

 これに対して、前回、長嶋茂雄さんと松井秀樹さんへの国民栄誉賞授与式が、東京ドームで派手派手しく行われたことを、「何かおかしい。納得いかない。あれは、特定の企業を利するもので、不正義・不公正である」と、一人の受講生が問題提起しました。

 マナーやルールなどの違反と違って、「間尺に合わない」「割り切れない」と感じる不公正感は、ギリシア語のロゴスが、比、割り切れることから「理性」の意味をもったことと見事に関係しています。「割り切れない」ことに「合点がいかない」と私たちが感じるのは、理性という「物差し」が「おかしい」と苦情をぶつけているのではないでしょうか。

 受講生の一人が、江戸時代を舞台にした落語「三方一両損」の話をしてくれました。落としたお金はもう自分のものではないからいらない、という江戸っ子の堅気がきっかけで、財布をとれ、とらない、と拾い主との間で大騒ぎとなり、大岡越前が一両だして「三方一両損」の名裁きをするよく知られた落語です。拝金主義の世の中を批判するために出されたものですが、アリストテレスの『二コマコス倫理学』における正義観に通じる話です。

 アリストテレスは、正義(不正義)を次の二つに定義しています。

1、決まりを守ること(守らないこと)
2、貪欲でないこと(貪欲なこと)

 2番は、なかなか興味深い正義の定義ではないでしょうか。これは実は経済的分配の平等意識からきているものです。目の前にケーキがあるとしましょう。これを自分だけ余計にとろうとする人を「貪欲」と呼び、不正義な人、と言うのです。ただし、共同体の全体では、ただ均等に分けるのが平等なのではなく、各人の状況(たとえば働きの具合)に応じて、取り分は比例配分することが、「正しい」(正義)であると考えられていました。

 現代日本に置き換えて、消費税は公正か、不公正か、などの議論で盛り上がりました。

 社会主義が平等(equal)観に根差し、民主主義は公平(fair)感に根差す、という話になったところで、「公正と公平はどう違うのか」の疑問が出されました。ディケンズの『大いなる遺産』では、英語の injustice が「不公平」「不正」「不公正」と三様に訳されていることを、前回は示しました。さて、どう違うのでしょうか。

 そこで、センの今回の著作でもたびたび登場するジョン・ロールズの有名な書『公正としての正義』の原題を示すことにしました。

 Justice as Fairness

となっています。

 次回は、ロールズの正義論も交えて、さらに話を進めることに致しましょう。

<レジメ>
「本書の多くは、カントの基本的な洞察の影響を強く受けている。すなわち…『理性を世界にもたらすことが、形而上学の問題ではなく、道徳の問題となり、人間の希望であると同時に仕事となる』。…『理性的でないこと』に溢れている世界であっても、理性は正義を理解する上で中心的な位置を占めるのである。さらに言えば、そのような世界だからこそ、理性はとくに重要なのである」(アマルティア・セン『正義のアイデア』序文 p.14-17)
 
 「間尺に合わない」という言葉がある。「割に合わない」「損になる」という意味である。定規できちんと測れない部分は勘定に入れない、ということであり、簡単にいえばはみ出した部分を切り捨てるから、その分だけ損をする、ことになる。これは、ギリシア語のロゴス(logos)、つまり、比、割り切れること、から転じて「理性」の意味を持つようになったことに見事に通じている。割り切れない、ことは、非理性的であり、私たちは、割り切れることを、理性的、とすることに慣れてしまっている。割り切れることは、理解できることであり、それ故、理に適っている、間違いない、正しい、と言葉の連想が続く。
 カントの理性は、超感性的な世界、すなわち形而上学のレベルから、私たちの感性的世界すなわち経験的な世界を統一した「物差し」としてくくってくれる、善を判断する道具として機能している。カント的な理性の導きに従えば、私たちは「理性的でないことに溢れている現実の世界」を、いつかはすべての人類が最終善へと到達するのだという、希望、夢といってもいいが、を与えてくれているのである。
 このカント的な楽観主義が正しいかどうかは、もちろん多大な議論がある。しかし、アマルティア・センはあえてこのカント的な理性の力の存在を肯定することを、彼の議論の始まりに置くのである。この世は「非理性的なこと」に満ちている、だからこそ、私たちは逆に理性の力によって、その「非」を正しい方向へと導けるのだ、と信じたいのである。
 センが引用した言葉の中で、「希望であると同時に仕事になる」の部分はとくに重要である。つまり、私たちが日常的に行うべきことは、非理性的なことどもの一つ一つを、理性という線路に乗せていくこと以外にない、ということだからだ。それはつまり、目の前の不条理に棹をさすこと、棹をさすよう不断の努力をすること、にほかならない。
 カントが『純粋理性批判』の第一版序文(1781年)の冒頭に掲げた次の言葉を思い出したい。
 
 「人間の理性は、或る種の認識について特殊の運命を担っている。即ち理性が退けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である(篠田英雄訳、岩波文庫、p.13)。これは決して形而上学的な問題に限らない。経験を超えて理性は目の前の不条理への解答を模索するのである。