2、酒宴は魂の性格を試す最高のテストである

 まずは、第一巻八でアテナイの客人が強調している、快楽(ヘドネー)についての次の主張を確認しておきましょう。

 「もしわたしたちの市民が、若いときから最大の快楽に無縁であるなら、そして、快楽にのぞんだときにそれを抑制し、どんな恥ずかしい行為も意に反しては行わないだけの訓練を受けていないなら、彼らはやがて、やすやすと快楽にふける甘き心のゆえに、恐怖に打ち負かされる者と同じ目にあうだろう。つまり、快楽にのぞんで抑制のできる者や快楽にかけては熟達している者たちーときに根っからの悪党であるがーそういう者たちの奴隷に、しかもさきとは別のもっと恥ずかしい仕かたで奴隷になるだろう、と」(1.635C-D、p.48)

 つまり、快楽にふける経験も、若いうちには必要ではないか、という議論なのです。第一巻の一〇~一六はこの議論を受けて、快楽に対してどのように対応すべきかについて、アテナイからの客人とクレタ、スパルタの二人とが正反対の論陣をはっていきます。

 クレタとスパルタは、苦痛に対しては最大の苦痛を与えて耐える訓練をするように習慣づけられているのに対して、快楽は避けるように教育されるようになっています。これに対して、アテナイの客人は、快楽を避けるような教育をしていると、大人になって快楽に身を持ち崩す危険があるのではないか、と二人がびっくりするような話を持ち出します。快楽もまた避けるのではなく、教育の中でむしろ身をさらす機会を与えることによって鍛えていく必要があるのではないか、と、議論を展開していくのです。

 とくにアテナイの客人が持ち出した快楽として、酒による「酔い」があげられます。酔いは、正常な判断をすることを難しくします。戦闘における将軍はもちろんのこと、船を率いる船長から、一国の主にいたるまで、リーダーたる人が酔いによって判断を間違えたらどうでしょうか。

 アテナイの客人は私たちに正常な判断をさせない精神の有り様として、憤怒、愛欲、驕慢、無知、貪欲、臆病をあげ、さらには富や美貌までも引き合いに出し、これらが酒に酔っているのと同じような「不正常な」行為へと私たちを走らせる原因になっている、と断じます。そして、人生において、私たちがこうしたものに惑わされやすいかどうかを試すために、酒をリトマス試験紙にすることを提案するのです。

 さて、ここで皆さんのご意見を拝聴したいと思います。朱に交われば赤くなる、の例え通り、快楽の味を覚えれば、人はどんどん良くない方向に進むと考えるか、ここにおけるアテナイの客人が語ることのように、悪に一旦染まってみなければ、悪の本質はわからない、と考えるか、重大な問いがここには隠れていると思います。

 釈迦は、若い時に放蕩の限りを尽くしました。放蕩の底を見たとき、悟りへの道が開けたともいえるのです。

 どう考えますか? みなさん。