2、野村萬歳VS近藤良平

         ミメーシス(真似)をめぐる対話

 前回の技術とは何かの問いかけに対して、建築関係の職場にいた方は「技術とは、ものと心を結びつけ、要素を組み合わせること」と定義。「これまでにないものを生み出すのが科学。そこが技術との違い」「料理人が自分のイメージする料理を実現するために、その料理用の鍋を依頼した」などの声が出て、ルロワ=グーランが示した職人の低い階層性について「現代でもそれは給料の低さに現れている」と顕微鏡レンズの研磨技師の例を引いてくれる方もありました。

 さて、プラトンのミメーシス(真似、模倣)は、創造するとは何か、について、ひとつのモデルを与えるものです。『国家』(10.598A-C)における画家が椅子を描くたとえによれば、画家は椅子を模倣することによって椅子をキャンバスの上に描き出すわけで、画家は決して椅子そのものを作り出すわけではありません。表現とは、すべて何かのモデルを真似するのであり、プラトン的に言えば、芸術とは真似にほかならないことになります。

 ここでは、「狂言師」野村萬歳と「コンテンポラリー・ダンサー」近藤良平との対話を通じて、「真似る」ことの本質に迫ってみたいと思います。「学ぶ」とは「まねび」から来た言葉で、何かを学ぶことはすなわち何かの真似を通じての側面をもっています。野村は、代々受け継がれてきた「型」を学び、近藤は人間の仕草そのものから学ぶのです。

 萬歳によれば、「型」は身体を動かすある種の仕掛けです。型にはめると、身体にある種のスイッチが入り、自動的にひとつの動きをすることができるといいます(野村萬歳『MANSAI解体新書』朝日新聞出版、p.190)。「それらしく装うこと、ものまね、しぐさ」の意味をもつ「振り」は、「招魂、鎮魂の祭祀。“魂振り”に由来する動作」からきており、「依代を揺り動かすことによって、生命力が目覚め、生き生きとした活力が発揮される」ことが原意です(同p.185)。「型」にはまると、ある動きをさせる「魂」が目覚めて(スイッチング)、その動きに命が生れる、ということでしょうか。極論すれば、「振り」とはある動きの型に誘う、ということになります。

 人の動きを観察するのが好きな近藤は、「スーパーマーケットのシャツ売り場で50歳ぐらいのおばちゃんが、紫のシャツを買おうか、黄色のシャツにしようかで悩んでいるところなんかを見ていると飽きません」 (同p197)など、そこから「笑い」につながる「振り」を常に学んでいます。人の動きを観察するだけでなく、人との身体的コミュニケーションによって生れる、予想外の動きを重視します(同pp.191-194)。握手をして引っ張り合うだけでも、状況や相手によってまったく違った反応が生まれ、新しい動きの「魂」が目覚めてくるようなのです。

 萬歳は「人間の本質に存在する滑稽さ」を俯瞰的に演じることによって、「おかしさ」を演出しているといいます。近藤は、瞬間、瞬間の出会いから生れる動きの一つ一つから、「笑い」の種を導出しているように思われます。お二人に関する映像を見てもらいましょう。

野村萬歳vs羽生結弦 https://www.youtube.com/watch?v=R6kWdmdlSrA
近藤良平vsはなれぐみ https://www.youtube.com/watch?v=eFmXWlyBIAQ

そこにはいかなる「技」「技術」が反映していると思いますか。