2,私はルサンチマンに左右されない

 前回の、現代はニーチェの言う「デカダン」の時代になっているのではないか、との私の提案に対し、「現代はカオスの時代」「一方で、過剰としてのデカダンがあり、その行きつく先に堕落がある」などの声をいただきました。「考える事」の重要性、ワクワク感の源になる前頭葉を鍛える、といった提言も頂戴しました。

 本日は「ルサンチマン」を克服するためのニーチェの方法論がテーマです。ルサンチマン(仏: ressentiment)は、弱い者が敵わない強者に対して内面に抱く、「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情を表し、そこから、弱い自分は「善」であり、強者は「悪」だとする「価値の転倒」のこと、とされ、ニーチェの用語と言われています。

 ニーチェが、ルサンチマンの状態を克服するのにもっとも分かりやすい例として出しているのが、雪の中で行軍しているロシア軍の兵士の話です(p.31)。もうどうしようもないとすべてをあきらめて、ひたすらじっとして死を待つ、というものです。インドのガンジーに象徴される無抵抗主義、のようなものですね。

 ニーチェは一時このような状態に陥ったようですが、一転して新しいルサンチマン攻略法を編み出します。それが、「戦闘的になれ」ということでした。じっと耐えて嵐が過ぎるのを待っていても、一向に消えてくれない嵐の中ならば、凛々しく立ち上がって、嵐に立ち向かうほうがはるかにマシだ、というわけですね。
そのための四カ条なるものをニーチェはあげています(p.35)。

1, 相手が勝ち誇っている状態になるまで戦わない。
2, 自分が孤立し、だれも味方がないと判断したときだけ戦う。
3, 個人を決して攻撃しない。
4, 個人的感情の食い違いがないものだけを攻撃する。

 1は、弱っている相手は攻撃しない、ということですから、まさにスポーツマンシップ同等の精神ですね。2は、何とも勇ましい孤軍奮闘の精神、3は実に褒めたたえられる真似をしたくなるもの、4は、食い違いがあれば争いにつながるという私たちの常識とまったくかけ離れていますね。

 キリスト教を彼が攻撃するのは、そこから「災難や妨害を加えられた覚えがないからこそ、闘いを挑む資格が私にはある」(p.36)と言い、しかも「キリスト教徒の中でも最も真面目な人々は、いつも私に対して好意的であった」(同)とさえ言うのですから、まさに、彼のキリスト教への攻撃は、哲学的、なものと言えるのでしょうね。

 統一教会問題が、社会を騒がせていますが、ニーチェ的に言えば、相手にする資格なし、とでもなるのでしょうか。さて、皆さんのお考えは?