3、『ダヴィデ』:音楽 レクイエム Dies ire(怒りの日)

'David'_by_Michelangelo_JBU0001

 まずは、モーツァルトのオラトリオk.74c『解放されたベトリア』(1771年、イタリア及びザルツブルク)を聴いてもらいましょうか。イタリア旅行中の1770年ミラノで、14歳に過ぎなかったモーツァルトが作曲したオペラ『ポントの王ミトリダーテ』は、その素晴らしい出来に歌手たちが狂喜しました。

 このミトリダーテを髣髴とさせる雰囲気をもった『解放されたベトリア』は、アッシリア軍の前に降伏寸前のユダヤの町ベトリアを、女性ユディトが単身敵軍に乗り込み、司令官ホロフェルネスをあざむいて泥酔させ、短剣をとってその首を切り落とした旧約聖書の英雄談がもとになっています。

 この話は、カラヴァッジョの『ホロフェルネスの首を斬るユディト』やクリムトの『ユディト』など、有名な絵の題材にもなっていることはご存知の方も多いと思います。このお話が、ミケランジェロの『ダヴィッド』とも関係があることを知ることは、何とも楽しいですね。

 ミケランジェロが、故郷フィレンツェを離れて、ローマ、ボローニャ、ヴェネツィアと転々と居所を変えているうちに、フィレンツェではロレンツォ・メディチの時代が終わり、侵攻するフランス軍(1494年)の対応を誤った後継者ピエロが追放され、ドミニコ会修道士サヴォナローラの神権政治を経て、1498年からフィレンツェは共和制の時代に入っていました。
 
 故郷に戻ってきたミケランジェロに、25年もの間サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会大聖堂の事業監督所に放置されていた大理石の塊を使ってダヴィデ像を彫るよう、市側から注文が来たのです。もともと、旧約聖書を題材とした12体の巨像を大聖堂の控えの間に飾る計画があったのですが、「預言者」と「ヘラクレス」の像を除いて遅々として進まず、ダヴィデ像も二人の彫刻家が途中で断念したままになっていました。候補者にはレオナルド・ダ・ヴィンチの名もあがりましたが、1501年8月16日に26歳のミケランジェロに白羽の矢が立ったのです。
 
 完成が近づいた1504年1月15日、ダ・ヴィンチやボッティチェリらフィレンツェの芸術家たちにより、ダヴィデ像をどこに置くかで激論が交わされています。その記録が残っているので紹介しましょう(アスカニオ・コンディヴィ『ミケランジェロ伝』(高田博厚訳、岩崎美術社、pp.128-130)。候補地の一つが、市庁舎ベッキオ宮殿(パラッツォ・ヴェッキオ)の正面玄関脇に置かれていたドナテッロの『ユディトとホロフェルネス』像をどけて代わりに設置する案でした。婦女子が男子を殺すなど結構なことではなく、これは、悪の象徴である、というのが置き換えの一つの理由にあげられています。
画像の説明 
 ダ・ヴィンチは、像を外に曝すと痛むので大聖堂の開廊(ロッジア)に置く、との意見に賛成します。宮殿の中庭の案もありましたが、最終的にはミケランジェロの意見で、『ユディトとホロフェルネス』像(左上)をのけて宮殿正面玄関前設置で落ち着くことになるのです。
 
 高さ5.17mの巨像は、作業場から4日がかりで宮殿前広場に運ばれ、1504年6月8日までに予定した宮殿玄関前の台座に据えられました。1527年の暴動で群集が大石をなげて左腕を壊しましたが、ヴァザーリらが破片を集め、やがてもとへと復元したそうです。