3、これはぼくの「白鳥の歌」だ

 1791年12月5日にモーツァルトが亡くなって6日後の12月11日に、コンスタンツェは皇帝レオポルト2世に拝謁して、残された遺族(自身と2児)のために、年金下賜の請願書を提出しています。同じ日、ウィーンの宮廷付属聖ミヒャエル教会で、シカネーダーら友人たちの手で追悼ミサが行われ、未完で残された「レクイエム」の「イントロイトゥス」(入祭唱)と「キリエ」が歌われました。これがおそらくは、「レクイエム」が公開された最初だと考えられています。友人たちが協力したであろうその後の度重なる請願が功を奏し、翌1792年3月13日付けで、モーツァルトが生前支給されていた宮廷作曲家としての俸給800フローリンの三分の一に相当する266フローリン40クロイツァーが、一年間ではありましたが年金として支給されることが決まったのです。

 とはいえ、すでに「レクイエム」の依頼者から作曲料の半分をもらっており、契約を満たす上でも、生活に必要な残額の支払いを得るためにも、コンスタンツェが曲の完成を望んだのは当然のことでしょう。おそらくは、年金請願の動きと並行して、コンスタンツェは「レクイエム」の完成を、モーツァルトが最も信頼していたと思われる作曲家で合唱指揮者だった若きアイブラー(1765-1846)に頼んだのです。しかしアイブラーは結局この仕事を途中で投げ出してしまい、ジュースマイヤーの補筆によって1792年3月初め頃に完成されることになります。この補筆完成稿は、ほぼ1年後の1793年1月2日に、モーツァルト終焉の住居に近いヤーン館ホールで、全曲演奏が行われました。貴族の中で最後までモーツァルトを支援したヴァン・スヴィーテン男爵が開催し、指揮をしたのは皮肉にも、モーツァルトが彼に毒殺されるのではないか、と疑っていたとも言われるサリエリでした。

 補筆完成稿を受け取った依頼主のヴァルゼック伯爵は、ヴァン・スヴィーテン男爵の初演からほぼ一年遅れの1793年12月14日に、ヴィーナー・ノイシュタット市の修道院付属教会で、夫人アンナの追悼ミサを行い、「レクイエム ヴァルゼック伯爵作曲」と題し、自らの指揮で演奏を行いました。そして夫人の命日にあたる翌1794年2月14日に、ゼンメリングの教会でやはり自らの指揮で「レクイエム」の再演を行ったのです。

 1829年7月1日、英国の作曲家で出版業者でもあったヴィンセント・ノヴェロとその妻メアリーは、ケルン、マンハイム、ミュンヘンを経てザルツブルク入りします。そこでコンスタンツェや妹のゾフィーらと会い、会話の記録を本として残しました。それによれば、「レクイエム」を作曲中のモーツァルトの精神状態はおかしく、コンスタンツェに「ぼくは死ぬに違いないんだ。誰かが、アクア・トファーナをぼくに飲ませた、そしてぼくの死ぬときを正確に計算したーそのために『レクイエム』を注文してきたのだから、ぼくはこれを自分のために書いているんだ」と強い調子で話したそうです。彼女は、心配して「『レクイエム』の仕事はやめてほしい」と懇願して取り上げるなどしたが、結局、作曲は続けられたそうです。

 亡くなる少し前に、モーツァルトは夫人とジュースマイヤーとで「レクイエム」を歌ったとき、涙を流すほど憂鬱な気分を示し、「ぼくが死んだら、これが最も重要なところだ」と、ジュースマイヤーに指示を出した、ともコンスタンツェはノヴェロ夫妻に語ったそうです。アクア・トファーナは、白ヒ素、アンチモン、酸化鉛の混合物で、無色・無味、17世紀にイタリアで化粧品として売られていたものが、このモーツァルトの時代18世紀には、毒薬として知られるようになったとかで、夫殺しの目的で入手する婦人が結構いた、などと言われています。

 ノヴェロ夫妻に「レクイエム」作曲時の様子を話す2年ほど前に、モーツァルトとも親しく、「レクイエム」の自筆譜を所有していたこともあるシュタードラー師(神父)に、コンスタンツェはかなり詳細な手紙を書いて、作曲のいきさつを明らかにしています(1827年5月31日付)。

 「モーツァルトはレクイエムなど始める気はまったくなかったのですが、好みのジャンルだから、たいそう喜んで引き受けたと、よく話しておりました。自分がこれほどの熱情で意欲をもって、作曲しようとしているのだから、自分の死後には味方も敵もこれを研究するに違いない、とも。『もっと長く生きることさえできれば、この作品はぼくの傑作に、また白鳥の歌になるに違いないのだが』と申しました」

 白鳥の歌は、シューベルトの歌曲集で知られますが、白鳥が死ぬ際に歌うと言われる伝説から由来する、作曲家や詩人らの最後の作品を意味します。曲の絶筆とでも言えばいいのでしょうか。残念ながら、「レクイエム」は本人の言葉通り、モーツァルトの「白鳥の歌」になってしまいました。

 モーツァルトの死後、コンスタンツェの夫となった外交官のニッセンは、彼女の話にもとづいた「レクイエム」作曲の様子を残しています。概略は、ヴィンセント・ノヴェロ夫妻に語った内容と同じですが、死を口にし始めたモーツァルトが、1791年11月15日に完成した「フリーメイスン・小カンタータ」(k.623)が大喝采で受け入れられたことによって、「レクイエム」の作曲に再び取りかかったことが書かれています。

 次に掲げるのは、「イントロイトゥス」と「キリエ」にかける各指揮者の大体の時間です。BBCプロムス(ラニクルズ) 6分33秒、ショルティ 7分18秒、カラヤン 8分14秒、チェリビダッケ 11分02秒 。冒頭の2曲だけで、こんなにもテンポが違うのです。さて、皆さんは、もしモーツァルトが現代に生きていたとしたら、自分の「レクイエム」をどのように指揮・演奏したと思いますが。ノヴェロ夫妻がコンスタンツェから聞いたところでは、モーツァルトは「せかせか演奏するオーケストラが特に嫌いだった」そうです(『モーツァルト巡礼』小池滋訳、秀文インターナショナル、p.70)。

参考文献:ロビンズ・ランドン『モーツァルト最後の年』(海老澤敏訳、中央公論社、2001.2)、『モーツァルト書簡全集Ⅵ』(海老沢敏・高橋英郎編訳、白水社、2001.6)