3、ニーチェ 「物自体」は「意味自体」と同じく背理である

 この日の講座は、「時間と忘却」の話をしてくれた受講生に応える形で、メキシコのノーベル文学賞作家オクタビオ・パスのノーベル賞受賞講演『現在の探究』(1990年)を紹介することから始めました。
 パスはメキシコ市郊外の、森のような庭と本であふれた大きな部屋のある古い家で育ちました。子どものころまで、庭が世界の中心であり、書斎は魔法の洞窟で、すべてが手の届くところにあり、そこで流れていく「中庭的」時間が彼にとっての時間でした。ところが、年上のいとこがニューヨークで行進する兵士の写真を見せてくれたとき、彼は「本当の時間がほかにあった」ことに気づき、動揺するのです。
 時間が徐々に裂け始め、彼がまどろんでいた中庭的な時間が解体します。つながりのなかったさまざまな世界と自分がつながりだし、世界という他者の時間が見えてきたのです。そしてこの瞬間に、パスは「大人になった」ことを発見するのです。
 
 子どもから大人になるとき、私たちは社会的な時間の流れ(それを歴史的時間と置き換えてもいいのですが)の中に組み込まれていきます。私自体というとき、私たちは社会的な自分を指して言おうとするのでしょうか、それとも、大人になる前の、パスの言う「中庭的時間」のなかにいる自分を指して言おうとするのでしょうか。アリストテレスの「現実態」(エネルゲイア)と「可能態」(デュナミス)の考え方に立てば、成人した大人になって始めて、自分自身になるということになりましょう。しかし、無垢の私のほうが、本来の私である、と私たちは考えることが多いのではないでしょうか。

 前回、私たちは老人ホームの介護の現場で、多くの人たちが社会の時間の流れから取り残されていることに希望を失い、人によっては「生き地獄だ」と苦悶していたことを見てきました。この人たちは、私たちが大人になるにつれ社会的な時間の流れに乗っていくのと反対に、その流れから取り残され、自分自身だけの時間の流れへと落ち込んでいった、と言えるでしょう。彼らは「自分たちは忘れられている」と、焦燥感にさいなまれているのです。彼らからしてみれば、社会の時間の中にいた自分が「私自体」であったと、感じていたのではないでしょうか。

 こうした問題提起に、みなさんがどのように答えていったか、続きはまた。
 
3、 問い:私たちはよく「そのものへと至る」という言葉を使う。そのとき、何かがわかったような気がしないだろうか。「私そのもの」と言うことは、ニーチェの言うように背理なのだろうか。

テクスト: ニーチェ 「物自体」は「意味自体」と同じく背理である。
(『権力への意志(下)』ちくま学芸文庫、pp.92-93)

「ひとは、物自体がどのような性質のものであるかを知りたがるが、ところが、物自体なるものはなんらない! しかも、たとえそれ自体でのものが、無条件的なものがあったとしても、まさにこのゆえにそれは認識されることはできない! 何か無条件的なものは認識されえないのである、さもなければそれはまさに無条件的ではないであろう! しかし、認識するとは、つねに、「なんらかのものに対しておのれを条件づける」ということであるーー。…『物自体』は、『意味自体』、『意義自体』と同じく背理である。いかなる『事実自体』もなく、或る事実がありうるためには、一つの意味がつねにまず置き入れられていなければならない。『これは何か?』とは、何か当のものとは別のものからみられた一つの意味定立である」(『権力への意志(下)』pp.92-93)

<解題>
 
 カントは、物自体を心であると言い、ショーペンハウエルは、それを意志である、と言った。しかし、この言葉「自体」について、いかにもニーチェは文献学出身らしく、言葉そのものの意味構造から、物自体に迫ろうとしている。
 もし我々が、何らかの事実を目の前にして、「事実自体」のことを語ろうとしてみよう。それは、事実そのものと何ら変わることがなく、自体を加えることによって何らの意味も付け加わらない。同様に、「意味自体」と言ったところで、それは意味そのものを指しているに過ぎず、意味の意味に何らかが加わるわけではない。仮に「私自体」という事によって、何か「私」と言うだけの言い方と、何かが変わるかどうかを見てみよう。「私自体」は「私」以外の何ごとも付け加わらないことがわかるだろう。
 第Ⅱ期講座カント『判断力批判(下)』を読む第3回「世界には何一つ無駄なものはない」において、一人の受講生が話してくれた、時間の中で層として積み重なった「私」という考えから入ってみることにしよう。この、その度ごとの「私」を、一つ一つ抜き取っていくとどんなことが起きるだろうか。中学生の私、小学生の私、幼稚園の私…と私の層は少なくなり、やがてすべての私は消滅する。そのどこに、「私自体」が存在するのだろうか。「『これは何か?』とは、何か当のものとは別のものからみられた一つの意味定立である」とニーチェが言うように、「私とは何か」と問うたならば、「○○家の長男」「○○会社の課長」「○○が大好きな私」「昨日の私とは違う私」などの表現においてしか存在しないのではないだろか。
 しかし、別の受講生らの言う「私=1/無限大」はどうだろう。「愛おしく思う私」はどうだろう。あるいは、「私という存在」が「私自体」とは言えないのだろうか。