3、プラトンから読み取れる現代批判
第二巻一~六を読み進めます。ここではもっぱら、アテナイの社会的現状にたいする批判が語られていきます。まずは、音楽や芸術への批判です。音楽・芸術の善し悪しを判定する人間は、徳を備えた人でなければならない、と語り、次のように現状を批判します。
「作家は、判定者たる観客の低俗な快楽を目標に制作するため、その結果、彼ら観客のほうが、作家を教育していることになり、他方では、観客の快楽をも堕落させているのです。なぜなら、観客はいつも、自分よりすぐれた品性の人に耳をかすことによって、その快楽を高めなくてはならないのに、です」(p.107, 2.659C)
テレビや新聞などのマスメディア批判が絶えません。とくに、本質から目をそむけ、ひたすら楽しむことに傾注するテレビの脳天気ぶりは目を覆うばかりです。こうしたメディアの凋落も、実は私たちの低俗性の反映に過ぎないのだ、とプラトンに私たちは批判されているような気がしませんか。
もう一つは、当時のアテナイ人がこぞって大事にしているものへの辛辣な批判です。
「いちばん善いものは健康、二番目は器量よし、三番目は富などと言われたり、その他のたくさんの善き物があげられています。…僭主となって欲するままに行えることとか、さらにすべての仕合せの頂点として、これらすべてを所有した上で、できるだけ速やかに不死になること、などがあげられています。…(しかし)いわゆる善きもののすべてを身につけて永久に不死であろうと、彼が正義その他徳のすべてを欠いていたのでは、…一般に生きることにしても、最大の禍となり、むしろそういう人は、残るいのちのできるだけ少ないほど、その禍も小さくなるであろうと」(p.112, 2.661A-C)
どうですか。美や健康、そしてお金に関心が集中する現代の私たちに対する痛烈な批判に聞こえないでしょうか。何が善か、何が正義かの議論は、棚上げになっていくような気がします。このまま時代が進めば、再生医療の力を借りて、私たちは不死への夢を見るようになるに違いありません。アテナイ社会に対するプラトンの批判は、時代を超えて私たち自身の問題性を鋭く突いている、と考えるのは、私だけでしょうか。
プラトンはこうした状況を作り出したのは、すべて教育に問題があると考えました。
「わたしの意見によれば、子供たちの身に最初に徳のそなわることが、教育なのです。つまり、快楽と愛、苦痛と憎悪が、まだ理知による把握のできない者の魂に、正しい仕方で植えつけられるならば、そしてまた、理知による把握ができるようになったとき、それら快苦愛憎が、適当な習慣のもとで立派にしつけられ、それによってその理知と強調するようになるならば、その両者の協調全体が、すなわち徳なのです」(p.91, 2.653B)
ここで、理知と訳されているのは言うまでもなく、「言論」「言葉」「理(ことわり)」さらには「比(割り切れる)」などの意味をもつ「ロゴス」(λόγος)のことにほかなりません。プラトンの師ソクラテスが、アナクサゴラスの説く自然宇宙の原理「ヌース」には正義とは何かの答えは書かれておらず、それは人間社会を結ぶ「ロゴス」にしかない、と確信した(『パイドン』97c-100a)あの「ロゴス」のことなのです。