3、万物の尺度は神であるーえっ、それってどういうこと?

 前回は、「遊び」のことで、皆さんの話が大いに盛り上がりました。

「レヴィ=ストロースが、未開社会の部族長の条件は遊ぶことである、と書いています。日本の古代社会に祭祀を執り行なう人たちは『遊部(あそびべ)』「と呼ばれていた」

「社会全体に遊びが欠如してきていることが現代の問題ではないか」。

「子ども時代の遊びの創造力はすごい、それをどう導いてやるか、が大事」

「いろんなことを知らなければいけないのだろうか。生きることというのは、食べることと遊ぶことなのだから」

「知らぬが仏、のように、無知の力、知らないことが大きな力をもつ、知らないほうが幸せですよ。遊びは、自由、自由度ということではないか」

「未開社会で、リーダーが遊ぶことを条件とされるのは、①部族長が独裁者にならないために遊んでください。②みんなが遊んでいてもいいように、部族長は遊んでください。③トップが遊んでいれば、争いごとが部下たちの間だけで収拾し、大事にならない」

 さて、今回は、予告しておいたシモーヌ・ヴェーユの『ギリシアの泉』(冨原真弓訳、みすず書房)から、唯一プラトンの『法律』から引用している「神(テオスθεός)は万物の尺度(メトロンμέτρον)である」について考えてみたいと思います。これは上巻の第四巻257頁(716C)にあげられているものですが、当然のことに、大ソフィストのプロタゴラスが語った「人間(アントロポスἄνθρωπος)は万物の尺度である」を意識し、その間違い、具体的に言えば、当時のアテナイ社会に蔓延していた「おごりの構造」に楔を打ち込もうとしたものであることは間違いのないところでしょう。
 
 ヴェーユは同著で、『法律』のほか、対話編『国家』『饗宴』『パイドン』『テアイテトス』『ゴルギアス』『パイドロス』『ピレボス』を引用しながら、神秘主義者としてのプラトンの顔を抜き出し、彼を神の恩寵を最高の「正義」とする一キリスト者として描こうとしています。

「彼は哲学的言説を発見した人間ではない」
「プラトンの著作のうち、われわれに残されているのは大衆向けの通俗書だけである」(以上『ギリシアの泉』117頁)
「プラトンは真正の神秘家であり、あまつさえ西洋神秘主義の父である」(同118頁)

 とのヴェーユの見方には賛成しかねますが、神を実質的に遠ざけた師のソクラテスから大きく離れて、プラトンが哲人王の上に神を置こうとしていたことは否定できないでしょう。その意味で『法律』は、脱ソクラテスのプラトンそのものの意識が露出した作品であると言ってよいと思います。
 
 メトロンμέτρον は、簡単にいえば「物差し」や「秤」のことです。正しいか、正しくないか、行くべきか、行くべきでないか、など、すべての言動を決める基準です。「制限」「や限界」の意味もあり、この基準は必然的に、私たちをひとつの枠組みに閉じ込めることになります。

 「神の物差し」とは何なのか、さあ、談論しましょう。