3、世界には何一つ無駄なものはない

 私たち自身の「生」と「死」は、いかなる意味で無駄ではないと言えるのだろうか。

世界には何一つ無駄なものはない
「草は家畜が存在するために存在し、家畜は人間が存在するために存在する、という考え方は、では我々人間は何故存在するのか、という問いに答えられなくなる。物質は、有機的組織をもつ限りにおいてのみ、自然目的という概念を必然的に伴い、この自然目的という概念は、目的の規則に従う体系としての自然全体という理念に必然的に到達せざるを得ない。自然の一切の機械的組織は、理性の原理にしたがってかかる理念に従属しなければならないのである。理性の原理とは、主観的原理すなわち格律であり、この格律とは『世界における一切のものはなんらかの目的に役立つ、世界には何ひとつ無駄なものはない』という命題である」(pp.43-44 の要約)

サブ・テクスト:ディビッド・ゲッツ『アイスマンー5000年前からきた男』(赤澤威訳、金の星社)
:アイスマン「氷河に閉じ込められたミイラ」(現地博物館出版物)     
 
 1991年9月19日、ドイツ人の観光客ジーモン夫妻は、地図には載っていないオッジー渓谷の氷河を下って山小屋に向かっていた。標高3200m、イタリアとオーストリアの国境近くで、二人は奇妙なものを見つけた。氷河のなかから這い出るかのような男性のからだ(死体)だった。後頭部に穴があることから、二人は殺人事件だと思って避難所の山小屋に通報した。これが、のちに渓谷の名オッジーを愛称とするにいたったアイスマンが、5300年の時間の壁を越えて現代に現れた瞬間だった。
 周囲の氷の中から、銅製の手斧や革製のポーチ、羊の革でできたコート、鹿の皮でおおった靴、樺の表皮で作られた物入れ、熊革の帽子、子牛革のベルト、石英製のナイフ、シャモア(ヤギに似たウシ科の動物)製の矢筒、ガマズミ(スイカズラ科の木)製の矢、などが少しずつ見つかっていった。
 アイスマンは、氷河の中で一種の冷凍乾燥の形で保存されていたと考えられている。1991年は、アフリカ大陸のサハラ砂漠で砂嵐が起こり、大気中に大量の砂ぼこりがまいあがった。その一部がアルプスに落ち、雪を黒っぽく染めたために、熱を吸収して氷をとかし、アイスマンを出現させたとされている。羊飼いだったと推定されるアイスマンは、この高地に何しに来たのだろうか。左肩の下に矢傷が残っていることから、アイスマンは背後から誰かに弓で攻撃を受けて死んだ(つまり、殺人)のではないか、と最近では考えられている。
 アイスマンは、5000年ののちに発見され、現代人に過去を見せる一つのタイムマシンとなった。しかし、二度と後世に知られることのないだろうほとんどの「私たち」を含めた無数の「死」は、いかなる意味で“無駄ではない”、のか。いや、そもそも私たち一人一人の「生」そのものが、この地球、ひいては宇宙にとって、無駄ではないと言えるのだろうか。「私」という“有機交流電燈”の、無駄ではない理由を考えてみたい。