3、吉田秀和「前畑ガンバレ!」

 もっとも感性豊かなモーツァルト批評者はだれか、と言えば、間違いなく吉田秀和がナンバー・ワンなのではないでしょうか。40番交響曲を聴いて「疾走する悲しみ」の名文句を残した小林秀雄の『モオツァルト』に刺激を受けて音楽批評の世界に入った吉田は、1936年21歳の学生時代に北海道・小樽の大通りで、「前畑ガンバレ!」のベルリンオリンピック・実況放送のあとに流れてきたメニューイン演奏のヴァイオリン協奏曲7番ニ長調K.271a を聴いたことを、モーツァルト体験の重要な一コマとしてあげています。

 吉田は、「いつものモーツァルトのヴァイオリン協奏曲と趣が違う」と感じながら、「おもしろい」とも思い、その音源が通りの一角のビアホールでありことを突き止めて「私は聞きながら、幸福だった」と回顧するのです(吉田秀和『モーツァルトを求めて』白水ブックス、pp.163-166)。

 戦後すぐの大阪の道頓堀で、小林秀雄が交響曲40番ト短調.を耳にしたとき、ある種の衝撃を受け、音源の百貨店を突き止めた体験が名作『モオツァルト』を生んだ話を彷彿とさせますね。終戦後に、この小林の『モオツァルト』を雑誌『創元』で読んで、「音楽を書くことの深淵」に触れ、本格的に音楽評論の道に踏み込んだのも、小樽の体験と小林の道頓堀体験とが重なりあって共鳴した結果ではないか、という気がします。

 まずは、偽作とも言われているそのヴァイオリン協奏曲7番ニ長調K.271a を聴いてもらうことにしましょう。演奏はまさに吉田がそのとき聴いたメニューイン、1932年6月4日パリでの録音、ジョージ・エネスコ指揮、パリ交響楽団との競演です。

第一楽章 https://www.youtube.com/watch?v=qc4-YCnzpbY
第二楽章 https://www.youtube.com/watch?v=mmKIl7OvWAk
第三楽章 https://www.youtube.com/watch?v=mmKIl7OvWAk

 吉田は、子どものころからピアノをいじるのが好きで、とくにモーツァルトのピアノ協奏曲9番k.271は、「正面から直接対面した、最初のモーツァルト協奏曲」であり、「私を夢中にさせ」た、と告白しながら、実に読みごたえのある評論を書いています(同書pp.185-232)。モーツァルトを下僕扱いで「手の中でころがそうとする」コロレド大司教との軋轢がついに破裂し、1777年の1月にモーツァルトは故郷・ザルツブルクを出て、職探しの旅に出ます。途中のマンハイムで出会った女性ピアニスト・ジュノムの力量に触発されて書いたのがこの協奏曲です。

 吉田は、二十(はたち)そこそこのモーツァルトがこの曲で「最も奇想天外な、余人の想像を絶した着想を示」し、「空前絶後の音楽性の自然な発露に通じ」「大胆さと確実さとが、自然に、一つになっている」と喝破し、「モーツァルトの最高の美しさは、そこにあるのではないだろうか」と感嘆の意を表明するのです。吉田は、この第9番をアレクサンダー大王にたとえ、それまでの音楽家たちが探索し、模索していた問題を「大胆不敵、奇想天外、一刀両断」にした、と、第9番の登場をまさに「音楽界の革命」ととらえているのです。

 さて、皆さんは、数あるモーツァルト傑作ピアノ交響曲のなかで、この9番をどのように聴いているのでしょうか。情感豊かに、あたかもモーツァルトに刺激を与えたジュノムを思わせる内田光子のピアノで聴いてもらいましょう。指揮は脊椎を患いながら国際的な指揮者となったジェフリー・テイト。楽団は、たぶん、2008年から彼が主席指揮者をつとめているハンブルク交響楽団です。

https://www.youtube.com/watch?v=k-wbyyI-380&t=747s