3、太宰治の『新ハムレット』

 前回は、第一場第五幕のハムレットの言葉「The time is out of joint」をめぐって、「joint」を「箍」や「関節」、「The time」を「世の中」と解釈する通常の翻訳に対し、「時間の蝶番がはずれししまった」とのドゥルーズ解釈をめぐって、みなさんのご意見を拝聴しました。この部分をドゥルーズの『差異と反復』から見出した方は「蝶番がはずれるとは、因果関係がくずれる、ということだと思います」と明快な回答を寄せてくれました。もう一方の「そもそも、シェークスピアの国の人々は、この部分をとくに考えたりしますかね。すーと自然に意味が通じていると思うのですが、ネイティブに聞いてみたいです」も卓見です。

 一人の女性受講生が前回の「To be ,or not to be, that is the question.」をめぐって、自分自身の生き方哲学を披露してくれました。「どちらかを選ぶのではなく、どちらでもないファジーの選択を私はいつもしている。どちらかに決めてしまうと、いろいろな不都合や余計な摩擦を生んでしまうから」がその理由だそうです。この話は、いずれまた議論の場に乗ることになるでしょう。

 ハムレットは、じつにいろいろな人たちが、日本版「ハムレット」を書いています。「大シェイクスピアの劇作品を、その主人公の『日記』の形で、心理的に合理化しようとした」大岡昇平の『ハムレット日記』(大岡昇平集4、岩波書店、1983)、夢野久作、橘外男と並ぶ大衆文学変り種三人衆の久生十蘭の『ハムレット』(「昭和国民文学全集22、昭和49年8月)は、戦後まもなくの軽井沢のような避暑地に住む老人が主人公、近くは大阪の沙翁商店街を舞台にした悲惨な一家全滅物語「ハム列島」(島村洋子『てなもんやシェークスピア』所蔵、東京書籍、2000.8)、最近では数々の文学賞を独占している橋本治が『おいぼれハムレット』(河出書房新社、2018.6)の題で、ハムレットの“落語化”を試みる、という次第です。 

 さて、本日遡上に載せるのは太宰治の『新ハムレット』(1941年=昭和16年、文芸春秋社)でございます。冒頭の「はしがき」に、こんな解説を太宰は書いています。

「こんなものができました。というより他に仕様が無い。ただ、読者にお断りして置きたいのは、この作品が、沙翁の『ハムレット』の注釈書でもなし、または、新解釈の書でも決してないという事である。これは、やはり作者の勝手な、創造の遊戯に過ぎないのである。人物の名前と、だいたいの環境だけを、沙翁の『ハムレット』から拝借して、一つの不幸な家庭を書いた。それ以上の、学問的、または政治的な意味は、みじんも無い。狭い、心理の実験である」

 「沙翁の『ハムレット』を読むと、やはり天才の巨腕を感ずる。情熱の火柱が太いのである。登場人物の足音が大きいのである。なかなかのものだと思った。この『新ハムレット』などは、かすかな室内楽に過ぎない」

 「二月、三月、四月、五月。四箇月かかって、やっと書き上げたわけである。読み返してみると、淋しい気もする。けれども、これ以上の作品も、いまのところ、書けそうもない。作者の力量が、これだけしか無いのだ。じたばた自己弁解をしてみたところで、はじまらぬ」

 ハムレットのどこに引かれて、文人たちが書きたがるのか。ご議論いただきましょう。