3、安岡正篤の「学びて時に之を習う」

 安岡正篤(1898-1983)といえば、自民党政治家の「陰のご意見番」「首相指南役」の異名をとる体制派右翼の陽明学者で、終戦の玉音放送を加筆し完成させた人物と言われています。その彼の『論語に学ぶ』(PHP文庫)には、いくつもの興味深い記述があり、本日は良く知られた「学びて時に之を習う」の読み方について、彼の解読を紹介しながら、この意味の深層に迫ってみることにいたします。

 これは、言うまでもなく『論語』の冒頭の「学びて時に之を習う、亦説ばしからずや」(学而第一)のまさに最初の部分です。たとえばこの部分は、金谷治訳注の『論語』(岩波文庫)によれば、「学んでは適当な時期におさらいする、いかにも心嬉しいことだね。(そのたびに理解が深まって向上していくのだから)(p.17)と訳しています。「時に」を時々と訳しても、まあ、その内容は大同小異。「勉強しても、ときにはおさらいをしなくちゃだめだよ。新しい発見があったりして、楽しいんだよ」と、子どもたちに、復習の大切さを教える、ごく常識的な光景に見えてきます。こんなことを冒頭第一発で、わざわざ語りかける孔子は、どこにでもいる普通の学校の先生のように思えてしまうのは、私だけでしょうか。

 安岡は、この部分を「学んで之を時習す」と呼んで、新しい解釈を導入するのです。つまり、「学んだことを、時が習す」と解釈し、「時」を「時々」とか「適切な時期」と考えるのではなく、「その時代、その時勢に応じて」と考えるのです(p.24)そして、「そもそも学問・学習というものは、時々これを習うのではなくて、その時代、その時勢に凱切に(ぴったりと適切に)勉強してこそ学問・学習と言えるので、時代・時勢を離れて学問したのでは空理・空論になってしまう」と付け加えるのです(同)。

 時代によって、社会の枠組みや人々の価値観は違ってきます。人類に無限のエネルギーを与えてくれる救世主として登場した原子力は、いまや悪の代名詞として語られるようになりつつあります。今年度のノーベル生理学・医学賞に輝いた本庶佑博士の研究功績「免疫を抑える仕組みの発見およびその仕組みを応用したがん治療法の開発」は、眉唾とも言われていた免疫によるがん治療を、スターダムに乗せて余りあるものでした。

 「時が習す」との解釈は、さらに進んで、時間の流れが学問の世界に新しい道を開示してくれる、と読むのがさらに正鵠を得ている気がします。それは、時間が私たちに常に未知の世界を切り開いてくれることを意味し、この一文「学びて時に之を習う」は、「時(時間)によって習う」と読むことを教えてくれているのではないでしょうか。

 「論語は、これは世人が餘り知らないかと思いますが、別名を綸後(りんご)と言い、また輪語、あるいは円珠経とも言うております」(p.17)の下りも、実に興味深いものです。とくに円珠経については「鏡はいくら大きくても一面しか照らさないが、珠は一寸四方の小さなものでも、上下四方を照らす」と、『論語』の教えの本質を説いた六朝時代の大学者、皇侃(おうがん)の「論語義疏」からの引用をあげています。

 なるほど、『論語』とはそれほど素晴らしいものなのかーとはいえ、まだ俗人である私などは、いまだに「『論語』? へへん」の域を出られずにおります。さて、皆さんは?