3、徹底解明・サリエリ暗殺説

            ー推定無罪ー
 
 サリエリによるモーツァルトの暗殺説は、ピーター・シェーファー原作・脚本・ミロス・フォアマン監督による映画『アマデスス』(1984年)で一挙に噴いた感がありますが、天才・モーツァルトに対する畏敬と嫉妬のまじりあったサリエリの複雑な胸の内を描き出した秀作は、何と言ってもプーシキン(1799-1837)の小舞台劇『モーツァルトとサリエリ』でしょう。これは、『アマデスス』の原典と言っても良いものです。今日は、まず、この劇詩を皆さんに読んでいただき、サリエリの心のなかに身を置いてもらいたいのです。

 さて、いかがでしょうか。毒殺説が渦舞く最中に老衰で亡くなった(1825年5月7日。74歳)サリエリ本人の死から5年後に描かれたこの劇詩(1830年10月26日脱稿)のように、サリエリはモーツァルトに本当に毒を持ったのでしょうか。

「わたしは妬んでいる。深く、耐えがたいほど妬んでいる。おお、天よ! 正義はどこにあるのだ。神聖なる天賦の才能が、不滅の天才が、…おろか者の頭、無為の放蕩者の頭を照らすなどとは…おお、モーツァルトよ、モーツァルトよ!」

と呪いの言葉をあげながら。

 ドイツの医師ディータ―・ケルナーは、1963年に著した『大音楽家の病歴』(石山いく夫訳、音楽の友社)において、グルデナーらのリューマチ性炎症熱説をたとえば「当時市民が皆罹患するほどの大流行となり、多くの人が死亡した」とする根拠の一つを、ウイーン市の死亡報告書の調査結果によると、そのような事実はない、などの理由でしりぞけ、否定します。さらに、心不全、急性腎不全といったさまざまな説を否定し、モーツァルトの死を水銀中毒による死と断言しています。

 しかも、伝えられているモーツァルトの症状「浮腫、眩暈、嘔吐、体重減少、ノイローゼ、憂鬱症、刺激性、不安などなど」から考えられる可能性は、「慢性水銀中毒」唯一である、と言うのです。慢性という意味は、何らかの形で「1791年からきわめて微量ずつではあったが継続的に水銀が体内に入りこみ、11月20日前後に致死量に達する水銀が与えられ、このために手足がすっかり浮腫んで」しまい、そして死に至った」ことになるというのです。

 このケルトナーの結論は、誰かがモーツァルトに意図的に水銀を与え続けることによって、死に至らしめたものであることを示唆している、といえるでしょう。ケルトナーは、医者の立場としてはそれ以上何も言えないとしながらも、最後を1791年12月12日の『ベルリン音楽週報』の次の記事で締めくくっているのです

モーツァルトはー死亡した。彼はプラハから病身のまま帰国し、それからずっと臥床していた。水腫性が強く、先週の末に死亡した。彼の体は死後ふくれ上がっていたので、世間では彼が毒殺されたのではないかと噂している」

 モーツァルトが亡くなった12月5日からわずか一週間しかたたないのに、この記事によれば、毒殺の噂が巷に現れていたことになります。その噂は、やがて30年もたってから爆発的に広がり、ベートーベンやイタリア歌劇の新星ロッシーニの話のなかに、「サイエリ犯人説」が登場するまでになるのです。
 「無実のサリエリがなぜ殺人犯に仕立てられたのか?」の視点から、サリエリ擁護の立場で書かれた『サリエーリーモーツァルトに消された宮廷楽長』(水谷彰良著、音楽之友社、2004年3月)は、噂をめぐるさまざまな情報が詳しく掲載されていて、推理の糸を巡らせる興味深い読み物となっています。そこから核心となる“証言”を抜きだし、サリエリは果たして黒だったのか、白だったのか、皆さんに評決してもらうことにいたしましょう。(カッコであげてある頁数は、同書の該当箇所です。詳しく証言の中身を知りたい方は、参照してください)

●1822年3月~5月。イタリア・オペラの新星ロッシーニがウイーン滞在。熱狂をもって迎えられる。
「ある日カノンを歌った後、私は面と向かってこう訊いてみたーあなたは本当にモーツァルトを毒殺したのですか、とね。するとサリエーリは姿勢を正してこう言ったのだー私の顔をしっかり見てごらん。人殺しに見えるかね、と。確かにそんな風には見えなかった。(彼がモーツァルトに嫉妬したことは)おおいにありうるが、それと毒薬を用意することとの間には飛躍がありすぎる」(作曲家ヒラ―に対して後に語った言葉)       (p.257)

●1823年10月半ば。サリエリの弟子だったピアニスト、イグナーツ・モシュレスが入院中のサリエリを見舞う。その時の回想を妻が筆記。
「サリエーリに再会するのは悲しいことだった。その姿に私はぞっとした。彼は途切れ途切れのの言葉で自分に死が迫っていると語り、こう付け加えたー『これが私の最後の病になるだろう。私は名誉にかけて、あの馬鹿げた噂に一つとして真実がないと断言できる。私がモーツァルトへ毒を盛ったという話をあなたも聞き知っているだろう。だが、それは事実じゃない。モシェレスさん、それが悪意ある中傷以外のなにものでもないということを、世間の人たちに言ってもらいたい。老いたサリエーリが、死の床であなたもそう言っていたと』…道徳心から言わせてもらえば、あの人がモーツァルトを陰謀によって傷つけ、時間をかけて毒を盛ったのは疑いえないのだが」(p.264)

●1823年11月22~25日。ベートーベンの筆談帖への甥カールの記録  (p.267)
「サリエーリは自分の喉を切りました。しかし、まだ生きています」   (p.267)

●1823年11月以降。ベートーベンの筆談帖へのヨハン・シックの記帳  (p.267)
「サリエーリの良心が真実を語った賭け率は100対1です! モーツァルトの死に方はこの意見を裏付けています」                      (p.267)

●1824年1月25日。ベートーベンの筆談帖へのアントーン・シンドラーの記帳。
「サリエーリはさらに具合が悪くなっています。彼はほとんど狂人です。妄想にとらわれ、モーツァルトが毒を盛られて死んだのは自分のせいだと繰り返しているのです…それは真実です…彼がそう告白したがっているのですから…それが当然の報いということも、また本当です」                            (pp.267-268)
●1824年2月。同筆談帖へのヨハン・シックの記帳。
「子供と狂人は本当のことを言うものです。モーツァルトの死でそれが確かめられます」
(p. 268)

●1824年? 同甥カールとシンドラーの記帳。           
「サリエーリはまだ自分がモーツァルトを毒殺したと主張しています…彼は絶えずあらぬことを口走り…それを…告白したがっています」          (p. 268)
●1824年? 同、楽譜出版社シュレージンガーの記帳。       
「どうして彼は自分の喉を切り裂いたのか? あらゆる新聞に書かれていましたよ」
(p. 268)

●1824年4月15日。ノイコムが『ベルリン総合音楽新聞』に寄稿した書簡。
「サリエーリが死に際して怖ろしい犯罪を告白したと証明できたとしても、耐えがたい苦痛に打ちひしがれている74歳の、いまや死なんとする人の口からうっかり出た言葉を、そう簡単に真実だと受け取り、広めるべきではないでしょう。例えばわれわれは、死を前にして数か月の間、彼の理性の力が錯乱しているのを知っているのですから」 (p. 279)

●1824年5月7日以降。ベートーベンの筆談帖への甥カールの記帳。
「人々はいまなお、よりいっそう強くサリエーリがモーツァルトを殺害したと主張しています」 (p. 268)

●1824年5月23日 ベートーベンの交響曲九番ウイーン再演(初演は5月7日)の際、詩人カリスト・バッシが、サリエリのモーツァルト毒殺を当てこするビラを階上から場内に撒き、スキャンダルとなる。宮廷劇場監督ディートリヒシュタイン伯爵はこの件で帝室王室警察庁長官ヨーゼフ・ゼードルニツキー伯爵に書簡を送り、調査と処罰を求める。 (p. 276)
「外国の新聞はモーツァルトが毒殺されたかのように記事をでっちあげています。私たちは彼の死の詳細を知っておりますので、それをまったくの作り事と説明し、呆れることも出来ますが、その上名声ある品行方正な人物の名をこれで汚そうとするにいたっては、驚き呆れるばかりです」(同6月2日付書簡) (p. 276)
 6月6日付で、サリエリはヴィーン帝室宮廷楽長の職を解かれ、年金が支給されるようになる。宮廷楽長の後任は、1804年から楽長代理を務めるアイブラー。

●1824年6月10日。医師グルデナーの鑑定書
「この病気は当時ヴィーンでたくさんの住民を襲い、その中の少なからぬ人が同様の死を迎え、病状もモーツァルトのそれと同じでした。遺体の精密検査でも、異常な点は少しも認められませんでした。…もしもこれが卓越したサリエーリへ加えられた恐ろしい中傷への反証として役立つのであれば、私にとってこの上ない喜びとなりましょう」 (pp. 283-284)

●1824.6.25。サリエリの付き添い看護人アマーデオ・ポルシェによる宣誓書
 「サリエーリ殿が病中において有名な作曲家ヴォルフガング。モーツァルトを毒殺したと述べたのは本当であるかという質問に関して、私どもの名誉と良心にかけて、サリエーリがそのようなことを繰り返すのを耳にしたことはけっしてなく、これと関連するほんの些細な言葉さえはっしなかった、と断言するものであります」 (pp. 286-287)
●1824年8月10日。サリエリと親交のあった法律家兼ジャーナリストでメッテルニヒの秘密警察諜報員でもあったG.カルパーニの弁護書簡
「人々は、マエストロ・サリエーリがまさしくライヴァルで同僚にして友人でもある、かの有名なモーツァルトへ毒を盛り、死なせたと非難しています。マエストロ・サリエーリを知っていた、あるいは知る者には、かくも残忍な凶行を彼が行なえるとなぜ信じられるのか、むしろ言っていただきたいものです。誠実きわまりないサリエーリ、柔和で愛すべきこの人物が、死を招く飲み物をひそかに用意したなんて、ああ、どうしてそんなことがあるでしょう?」 (p. 290)

●1825年5月7日。老衰のため、サリエリ死去。 (p. 277)

●1825年5月25日。『ライプツィヒ総合音楽新聞』の記事。
「我らの尊敬するサリエーリは、人々の間で言われているようにまだ死ねずにいる。彼は老いの苦しみに苛まれ、理性を失ってしまっている。錯乱のうちに、モーツァルトの早世の犯人として自分自身を責めているのだ。誰一人信ずる者のいない狂人の妄想。それが心を病んだ哀れな老人に巣食ってしまったのだろう。モーツァルトと同時代の人たちは彼の貴重な日々を縮めてしまったものが、働き過ぎと、悪い友人たちとの行きすぎた交際にあったことを良く知っていたというのに!」(p.294)

●1825年? モーツァルトの息子、カール・トーマスと思われる覚書。
「私が願い、信ずるように、マエストロ・サリエーリはモーツァルトの死に関して無実であってほしい。この点について私は、彼の人間性を知り、これを評価する数多くの証人に同意したいし、だからこそ彼の無実を信じるのであるが…」(p.296)

●1829年7月15日。イギリスの出版社主ヴィンセント・ノヴェロの妻メアリーが、モーツァルトの息子フランツ・クサヴァー・ヴォルフガングから聞いた話としての記録。
「サリエーリの敵意はモーツァルトの『コシ・ファン・トゥッテ』作曲から始まりました。それはサリエーリが先に着手しておきながら、音楽を付ける価値がないと断念してしまったのです。モーツァルトの息子は、彼が毒を盛り、父もそのように考え、またサリエーリ自身が最後のときに真実を告白したにもかかわらず、そのことを否定しています」(p.297)

●1830年10月26日。プーシキンが劇詩「モーツァルトとサリエリ」を脱稿。(p.297)

 参考までに、この本には、サリエリがシューベルト(pp.269-270)やリスト(pp.273-274)の面倒を良く見ていたこと、また、サリエリ自身のいかにも高邁な精神を感じさせる「私が職業とする芸術への感謝」と題する一文(1822年5月22日)も紹介されています(pp.272-273)。これらは、サリエリの人柄を表すものとして、サリエリ自身の“証言”と考えることもできるかも知れません。

 さて、あなたがたの評決を聞かせてくれますか。

   サリエリは有罪ですか、それとも、無罪でしょうか。

★受講生たちの結論は「推定無罪」でした。いくつかの声をあげておきます。

モーツァルトは水銀中毒で死んだ、とする考えには賛成するが、おそらく、よくない遊びのために梅毒にかかり、それを治療するために自分で服用していたのではないか」
「サリエリが仮にモーツァルトを毒殺したとしても、死者に鞭を打つべきではない。もうサリエリは死んでしまっているのだから」
「状況からして、働き過ぎの過労が、彼の体を蝕んだ、と考えるのが妥当だと思う」
「宰相のメッテルニヒは、イタリア音楽びいきだった。サリエリに関するいろいろな噂を打ち消すために、彼が動いて、噂の真偽を確認させようとしたことが騒動の背景にあるのではないか」
「サリエリがモーツァルトを殺しても何の得もない。多少の嫉妬はあったかもしれないが、すでに彼は十分な社会的地位と名声を得ていたのだから」
「ビタミンDの欠乏が彼を死への道に追いやっていった、という説がある。繰り返された長い馬車の旅は、彼から太陽を遠ざけることになったのだから」