3、正義の判断、不正義の判断

 前回は、ディケンズの『大いなる遺産』において、英語の injustice の訳語が、
訳者によって「不正義」から「不公正」「不公平」と違うことが気になったままだった。
 これはそのまま、justice の訳語が「正義」「公正」「公平」の三者の意味に振り分けられることを示している。実際、英語の辞書、たとえばジーニアス英和大辞典は、最初に訳語として、

 公正、公平、正義

と書かれている。
 しかし、日本語の意味として、この三つがかなり違うことを私たちは現実の使われ方で当然ながら知っている。たとえば、「公正取引委員会」を「公平取引委員会」とすると、かなり違ったニュアンスを感じるに違いない。
 この肌感覚の違いを、広辞苑で精査してみよう。

公正 ①公平で邪曲のないこと 
      公正を期する  
      公正な裁判
      取引を公正に行う
   ②明白で正しいこと

公平 かたよらず、えこひいきのないこと。
      公平に分配する

 簡単に言えば、公平はかたよらないことであり、公正はかたよりのない正しさ、ということになろうか。公正の意味の説明として公平が使われているが、公平には公正が使われていない。つまり、公正は公平を含むが、公平には公正が含まれないのである。

 これでようやくロールズの『公正としての正義 Justice as Fairness』について語る準備ができた。Justice as Fairness は、やはり「公平としての正義」と訳すべきであろう。これは「かたよりのない正義」は、いかにしたら現実化するか、がテーマだからである。
 では、かたよりのない正義、とは何だろう。そもそも、かたよっている、悪い言葉で言えば、えこひいきのある正義、など存在するのだろうか。

 本日は、このようなところから話を進めてみたい。

 ロールズは、正義とは何かを考えるにあたって、お互いが相手のことを何も知らない「無知のヴェール」に包まれた状態を「原初状態」とし、そこから社会正義が実現するための原理と条件について考察した。彼が最初から念頭においていたのは、どのような社会が実現しようと、社会全体の得る便益が増加しても、最も恵まれない人たちの便益が悪化するならば、それは正義に反する、という直観的な信念である。
 これを「格差原理」と呼び、多くの人たちが豊かになって富の総量が増えれば、その富の分け前を受けられない人たちがいたとしても関知しないとする「功利主義」や、それなりの努力や才能のある人たちが巨大な利益を得る一方で落ちこぼれのある社会を容認する「リバタリアン」と呼ばれる人々の考え方とは、完全に一線を画している。 
 相対的に貧しいとされる人たちもそれなりの豊かさの進展を感じられるようになる社会が、ロールズにとって正義が実現している社会であり、これこそがフェア(fair 公正、公平)の本質である、と考えたのである。

 何が正義であるかについて、活発な意見が出された。

 「ロールズの考え方は、強気をくじき、弱気を助けるということですかね」
 「隠れた悪を退治することをコンセプトにするテレビ時代劇の必殺仕置き人は、五人の仕置き人たちが、依頼主から一人一両、つまり合計五両もらわないと仕事を引き受けない。つまり、本当に貧乏な人間は救われない、ということになる。彼らのやっていることは、正義と言えるのか」
「私たち日本人の感覚からすると、正義の義のほうに重さを感じていた。義のある正しさが、正義なのではないか」
「仕置き人たちの行為は、義によって悪を懲らしめているように見えるが、結局は金儲けなのだろうか」
 「正義は、畢竟、ヒューマニズムと勇気なのではないか」

 講座のあとの食事懇談会で、一人の受講者が素晴らしい話をしてくれた、

 Ted というアメリカのトーク番組で、ある弁護士が「アメリカの死刑囚のうち、9人に一人は無実」というデータを示し、死刑囚の多くが貧困に属す人たちであり、そこでは

 貧困の対極は正義になっている

 と結んだ、というのである。

 正義でさえ金で買える、あるいは貧しい人たちには正義の御旗は降りてこない、ということだろうか。「ああ、無情」のジャンバルジャンを思いださざるを得ない、胸に刺さる話だった。
 
<レジメ>
「18世紀のイギリスの強力な裁判官であったマンスフィールド卿は、よく知られているように新任の植民地総督に対して次のように助言した。『正義が要求するとあなたが考えることについて熟慮し、それに従って決定しなさい。しかし、その理由を述べてはなりません。あなたの判断はたぶん正しいでしょうが、あなたの理由は確実に間違っているからです』。…正義の理論の要件は、まさに正義と不正義の判断において理性を働かせることである」(アマルティア・セン『正義のアイデア』p.36)

 何が正しいかの判断は正しくても、その理由が間違っている、とは一体どういうことだろうか。私たちが世の中で起きている出来事に対して、何らかの発言・行為・行動を取ろうとしたとしよう。その場面においてある言動を私たちが正しいと判断するとき、私たちはなんらかの根拠によるか、「直感」(心への直接的な働きかけにより感じること)によるか、のどちらかに拠っているだろう。根拠は、具体的にあげられるものであり、その根拠に対して他者は別な根拠によって反論することができる。直感の場合は、しばしば、根拠があいまいである、と批判されたり、退けられたりする、可能性をもつ判断である。直感は体験依存であり、個々の人々の人生経験に深く根ざしているが故に、非経験者との共通了解が得られにくいのである。
 カントの図式に従えば、私たちの認識は、感性、悟性、理性の三段階を通ることによって、動物的な単純体験世界から、神の足元に達し得る理性的洞察の世界にまで到達することができる。理性によって、物事の本質に到達する力を「直観」と名づけ、単なる「感じ」の「直感」とは区別される。こちらの「直観」は「直知」であり、経験の蓄積に由来する「感じ」を飛び越える。
 正しいか、正しくないかの判断を迫られているとき、自らの判断に対して、あれこれ考え、何らかの理由づけを行ったとしても、その多くは「あてずっぽ」に過ぎない可能性が高い。しかし、「直感」ではなく「直観」が働いているとき、私たちの中ではいわば理性が起動しており、単なる「あてずっぽ」が真理を掴む。センは、そうした私たちの潜在的な力、すなわち「理性の力」を信じ、「グローバルな民主主義」の存立可能性を「直観」しているように思える。

直感:説明や証明を経ないで、物事の真相を心でただちに感じ知ること。すぐさまの感じ。(広辞苑)
直観:[哲](intuition)一般に、判断・推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接に知的に把握する作用。直感ではなく直知であり、プラトンによるディアレクティケー(注:対話)を介してのイデア直観、フッサールの現象学的還元による本質的直観等。(広辞苑)