3、正義の<はたらき>、不正の<はたらき>

 前回は、受講生の質問「ソクラテス型の問答法は、なぜアテナイの街で、はやったのだろうか」に対して、アテナイを牛耳っている大立者たちがソクラテスにやり込められるのを見て、彼らの若者世代が真似をして親たちを困らせ、それがきっかけで「青少年を悪く導く罪」によってソクラテスが訴えられることになった、との話をしました(『ソクラテスの弁明』より)。

 詭弁術を教えるソクラテスの思索学校に子どもを入学させ、借金取りを煙に巻く術の習得をさせた親が、子どもが学んだ反抗術によって自分自身に災難がふりかかり、腹いせにソクラテスの学校に火をつけてもやしてしまう喜劇(アリストパネス『雲』)が生まれたのも、こうした背景があったからでしょう。

 別の受講生は「プラトンの学園アカデメイアは無料だったのか」とのご質問です。どうも、お金はとらなかったようです。お配りした廣川洋一『プラトンの学園アカデメイア』(講談社学術文庫、1999.1)のp.111をご参照ください。プラトンの『国家』を読んでいる限りでは、アテナイの民主主義に疑念を感じる、との声もあったので、プラトンの時代のアテナイを概観しておくために、ジョン・キャンプ/エリザベス・フィッシャー『図説 古代ギリシア』(寺岡晶子訳、東京書籍、2004.9)から「古典期のアテナイ」の抜粋(pp.170-183)も配布しました。

 今回は、政治的な技術「エウブリアー」をめぐって議論が展開していきます。ギリシア語の「エウ」は、「良い」を表す接頭辞で、動詞形(思案する、考慮する、計画する、企む、画策する)から展開して、見識、分別、熟慮、などとなり、さらに転意して、「企みのうまさ」「狡猾さ」などとなっていきます。「計らい上手」(『国家』348D)も、ずいぶんと工夫した訳語で、対話篇の文脈に合わせて訳者はかなり表現を変えています。対話篇『プロタゴラス』の319Aにおける「有能能力」と『アルキビアデス Ⅰ』125Eにおける「いい案を出す(いい助言をする)こと」をご参照ください。

 トラシュマコスは、正義を徳、不正を悪徳とする常道に異議を唱え、「不正は得になるが正義は得にならない」との自論から、正義を「世にも気高い人の好さ」と呼び、不正を「エウブリアー」と呼ぶのです(348D)。ソクラテスは、彼の議論を展開して、「正しいδίκαιος人間は、知恵のあるすぐれたἀγαθός人であり、不正なἄδικος人間は、無知ἀμαθήςで劣悪なκακός人である」(350C)との結論を導き出し、トラシュマコスに冷や汗をかかせます。ソクラテスはたたみかけて「正義は徳(アレテー 卓越性)であり知恵であること、不正は悪徳(カキアー)であり無知であること」を、トラシュマコスにしぶしぶ納得させ、いよいよ「最もすぐれた国家とは、最も完全に不正な国家である」(351B)とするトラシュマコス論への反駁へと進むことになります。

 そのためにソクラテスは<はたらきἔργονエルゴン>の概念を持ち出し、正義は「協調と友愛」を、不正は「不和と憎しみ」をもたらす<はたらき>がある、と議論を展開し、「魂」の<はたらき>は生きることであり、固有の徳をもっていることへと話を進めて行くのです。