3、無知の知とは何か

 今回は、ソクラテス哲学の要ともされている「無知の知」がテーマです。

 『ソクラテスの弁明』のいわば新訳を出した納富氏は「弁明の中に、無知の知という考え方はない。これは、長い間に特に日本で固定してしまった間違いである」のように、説明しています。納富説については、彼の著書『哲学の誕生―ソクラテスをめぐる人々』(ちくま新書、2005年)の第六章に譲りますが、「無知の知」なる表現が『ソクラテスの弁明』の中に出てこないのは事実です。しかし、ソクラテスの弁明のなかに、この意味合いが読み取れるからこそ、その深い哲学的奥行きに人々が惹かれてきたのは否定できないと思います。
 
 「無知」の言葉が使われるのは、ただ一か所、次のところ(要約)です。
「死を恐れるということは、知恵がないのにあると思いこむことにほかなりません。それは、知らないことについて知っていると思うことなのですから。そしてこれこそ、無知というものにほかならないのではないでしょうか」(29a-b)

 この文章の真意は、原語に戻っての解読が必要です。デルフォイの神託は「ソクラテスほど知恵のある者はいない」でした。この「知恵」は「ソフィア」のことで、「知識」(フロネーシス)とは厳格に区別されます。「知恵」は「~することが出来る」技能的な意味合いから生じた「問題解決」能力であり、戦場から農作業にいたるまで、様々な場面において、的確な状況判断を行い、最適解を導く能力です。したがって、知識の有無は問いません。 
 
 「知らないこと」と「知っている」に使われている動詞は、「知識」の「知」(フロネーシス)につながる言葉です。したがって、「知らないこと」とは、「それについての知識を持っていない」ことの意味になりますし、「知っている」とは「~について知識があること」の意味になります。「あると思いこむ」「知っていると思う」の「思う」は、「ドクサ」(思い込み)の動詞が使われています。これは「ドグマ」(独断)につながります。
 
 興味深いのは、「無知」の原語が「アマティア」だということです。これは「成熟」の「マティア」に否定を表す接頭辞「α(あ)」がついたもので、スポーツや囲碁・将棋などの勝負の世界で使う「アマチア」へとつながります。「その世界に通じていないのに、知っているつもり」の人が「無知」となるのです。「無学な」とも訳されます。ちなみに、まったく何も知らない「無知」は「アグノイア」と言います。

 神託を自身への問いかけと捉えて、「知恵あるひと」(智者)とされている人たちに問答をしかけたソクラテスが得た結論は次のようになるのではないでしょうか。

 「彼らは自分の分野のことについては知っているとしても、善く生きる方図について、何も知らないのに知っているつもりになっている。私はそもそも善とは何かについて、知らないことを知っている。その意味で、私が誰よりも知恵者だ、と神は言ったのではなかろうか」
 
 「知る」の原語は「意識する」「自覚する」「気づく」を意味する英語のconsciousに通じます。この場合は、「知らないことに気づいている」とするのが妥当であり、この「気づき」が、ソクラテスの生き方哲学「魂への気遣い」へと発展して行くのです。

 それはいずれ。