3、知性平面で分けられた二つの世界

 今回は、いよいよ『道徳と宗教の二源泉』に分け入り、第一章「道徳的責務」の解読へと進むことにいたします。とはいえ、皆さんにいささか苦行をお願いしたのではないか、と反省しております。一見して読みやすそうなベルクソンのこの著書は、真面目に読み通そうとすると、いやなかなかの難物でありました。全体の構図が見えれば、同じメッセージの繰り返しであることがわかりますので、ここでは、表題のように「知性」を一つの平面としてその内と外を分け、内の世界の道徳と外の世界の道徳の有り様の違いを記述していくベルクソンの基本的な考え方を、まずは提示したいと思います。
 
 ベルクソンは数学大好き人間でしたから、彼の描く知性平面の考え方は、立体幾何学のイメージを浮かべることが理解の早道だと思います。最も単純なモデルは、地球の表面を知性が覆う面として、地球内部と外部宇宙空間がそれぞれ彼の言う「閉じた道徳」と「開いた道徳」が機能する場所である、とするものです。
 
 彼は、典型的な二元論者である、ことを確認しておきましょう。本能に支配される蟻のような集団生活を営む生物体(自然的秩序の世界)と、知性を備えた人間のような集団(社会的秩序の世界)がまず比較されます(pp.11-17)。

 蟻たちは、本能によってそれぞれが与えられた「責務」を負って生きています。働き蟻も軍隊蟻も、どの蟻も自分が日々していることに何の疑問も持たず、その役割を実践しています。しかし、人間はその社会の習慣に従って、ある役割をすることを「責務」として行うようになっても、「知性」が必ず「これでいいのだろうか」と疑問を投げかけてしまいます。子育てを女性がやるものだと本能的に思っていた社会に、男がやらないのはおかしいのではないか、の声が出てきます。こうして人間社会は、生きていく役割に「男女平等」のあり方を発見し、それに合わせた「責務」を各自が負う社会へと変容していきます。

 などなど、知性によって見つけ出されていく本能にはない「責務」が多様に重なりあって、人間社会の道徳が形成されていくのです。あるいは、個々の責務のベクトル和が示す方向性が、我々に課せられた道徳の方向性であり、ベルクソンに言わせれば「本能に似た道徳的習慣」(p.32)と位置付けられることになるのです。
 
 「本能による圧力」から「知性による圧力」へと道徳の形態が変わるのが、まずは蟻から人間への進化の第一歩です。そして、知性による人間社会の道徳を、キリストやソクラテスら英雄によってモデル化された「人類の道徳」へと「飛躍」させることが、ベルクソンの最大の願いなのです。これが、知性面で分けられた二つの世界であり、それぞれの世界に関わる特徴は次のように、区分けできます。

人類の道徳(開いている)   人間の道徳(閉じている)

理想社会・超社会的・魅力的  現実社会・社会的・衝動的
憧憬             威圧
情緒             表象          
英雄・芸術的・創造的
開いた魂・動的        閉じた魂・静的
絶対的正義          相対的正義      

 二つの世界を繋げるのが「エラン・ヴィタル」(生命の飛躍)となります。