3、線分の比喩 「見ようとして見ず、知ろうとして知らず」

 『国家(下)』の第六巻二○~二一(509C-511E, p.94-p.102 )は、真なる考えと、そのように思われるもの、現に存在するものと、その影の関係が線分の比喩によって説明されています。線分の比喩は、次のように始められます。

 善と善の子供の太陽の違いは、善は思惟によって知られるものの仲間であり、太陽は見られるものの仲間である。思惟によるものと、見られるものとが一つの全体としての線分(AB)を構成しているとしよう。この線分を見られる部分のACと思惟によって知られる部分のCBとに分割することにする(509D,96頁の図参照)。二つに分けられた線分のそれぞれを、今度はAC/CBと同じ比でさらに分割すると、AD/DC=CE/EB= AC/CBのように、点DとEを選ぶことになります。

 ここで、DCは現実に存在する動物や植物を表し、ADはたとえば水に映るその影のような似姿を表しています。EBは「認識されるもの」(γνῶσιςグノーシス 真なる思いなし、などと訳されることもある)、CEは「思惑されるもの」(ドクサ δόξα)を表しています。ドクサは、思い込み、そのように思われること、を意味し、正しく知られることを意味するグノーシスに対して、認識の虚像ないし影のような意味合いを持っています。

 この線分の比喩は、正直言って分かりやすいとは言えません。ドクサは通常、勝手な思い込み、あるいは根拠のない恣意的な考え、と翻案されます。これに対して、グノーシスは、真なる考え、本当の考え、とされます。思い込みは、人によって異なる考えを生じますが、グノーシスはそこに至ればだれもが正しいと思える認識です。これを、思い込み⇒影、正しい認識⇒現実の具体的な存在、のような対比ととれば、何となくわかるような気がしますがどうでしょうか。

 しかし、511E(102頁)にあるように、プラトンはこのそれぞれを「思い込み=間接知」、「正しい認識=直接知」、「影=間接的知覚」、「現実の具体的存在=直接的知覚」、のように割り当ててくれたまえ、と言っており、これからすれば、見える世界(知覚の世界)と知られる世界(知の世界)のそれぞれを、間接的と直接的の二つに分類していることになります。

 残念ながら線分の比喩に対して、明確でわかりやすく、的を射た説明は寡聞にして読んだことがありません。私は、こう単純化することにしました。私たちは物事を正しく見ようとして虚像を見ており、正しく考えようとして思い込みに陥っている、と。

 ここで、次のような疑問を呈することにしましょう。アリストテレスは言っています。
 
 善人への道はただ一つ。悪人への道は千差万別。(『二コマコス倫理学』1106b30)

善と悪の違いについて、極めて簡潔に言い当てた名言です。しかし、ひょっとしたら、これは善と悪についての単なる「思い込み」であり、ほんとうは、
 
 悪人への道はただ一つ。善人への道は千差万別。

ではありませんか。皆さんと、考えてみたいと思います。