3、随筆を自負する小林秀雄の学問観
●「常識」を解体すると…
前回は、皆さんから「常識とは何か」について、多様な見解を聞かせてもらいました。
「右へ習え、見たいな…」「分別」「自然に身に着いた知恵」「ある社会のある時期の共通の感じ方」「大勢の人間が求める正しさだが、哲学の求める真理とは違う」「当たり前のこと(それぞれの人にとっての)」「通じ合う当たり前のこと」「集団(社会)の行動原理とコミュニケーションの基礎」「空気(雰囲気)」「移り変わる最大公約数の共通認識」
小林のエッセイ「人形」に常識の本質を見たとする小林秀雄担当の元編集者、池田雅延氏の「小林秀雄をよりよく知る講座」をお一人が紹介してくれました。急行の食堂車で乗り合わせた老夫婦の細君が背広にネクタイを締めた人形を小脇に抱え、スープを口に運んでやるなど異様な行動を取っているのを、小林だけでなく同席した女子大生も何も語ることなくその場を過ごしたー話で、池田氏は、これこそ小林がデカルトの理性を常識となぞらえた随筆「常識について」で書きたかった「常識」の風景である、と紹介しているのです。
「異様な会食は、極く当たり前に、静かに、敢えて言えば、和やかに終わったのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんな事を思った」
と、池田氏が締めくくったこの場面において、人間として取るべき態度を小林秀雄も女子大生も、あるいはこの人形を抱いた老婦人の夫も、示した、ということになります。池田氏はこの態度を常識がもたらした「沈黙」であると結論づけていますが、沈黙をもたらした人々の「常識」の内実を探査してみることにしましょう。
皆さんがしてくれた常識の「意味挙げ」は、語「常識」を解体してその奥行きと広がりを探っていく作業にほかなりません。常識の語の解体を、「弁別」の英訳から入ってみると興味深いキーワードが出てきます。
prudence(良識), sensible(賢明な), discretion(深慮)などに並んで、 good judgement(良き判断)と、判断(judgement)が入っていることに注目すべきでしょう。
「人形」のこの場面は、小林も女子大生も、「黙っていた方がいい」と判断していたことになります。ちなみに、「分別盛り」を mature and sound judgement(成熟した、理にかなった判断)などと言いますが、この女子大生は若いのに、通常は40代の成人が身につく「分別」を、すでに備えていることになりますね。
山本七平は、日本人の特質を「空気に従う」と表現しています(『空気の研究』文春文庫)。皆さんが挙げてくれた日本人の「常識」観が、用語「空気」に集約されて、日本人特有の行動様式を生み出している、としたのですが、同じような場面に出会った世界各国の人々が、さて、どのような反応を示すか、「沈黙」か「おせっかいか」、それとも無視しておしゃべりに興じるか、皆さんにお国を挙げて推理してもらいましょうか。
●「心法」の心は気と見たり
本日のお題「学問」に入りましょう。小林秀雄がここで書いていることは、単純化すれば文字面を追うだけでなく、書かれていることの真意を「心」で捉えよ、となるでしょう。ここでも、伊藤仁斎のことを主に引用して、彼が、孔子について朱子学の書籍を読み漁ったが、いまひとつ孔子が何を言いたいのがわからない。朱子学の書物は、いわば孔子のメッセージを解説した「解説本」ですから、著者たちが孔子の意を理解するために、老子や荘子を引用したりして、それが仁斎にはかえって孔子そのものの理解を遠ざけている、と思えてならなかったのです。こうして、仁斎は、孔子の言葉そのものの記録である『論語』だけに頼る「古学」を樹立し、孔子のメッセージをひき出そうとしたのです。
その努力のなかで悟ったのが、「書かれた言葉を眼でだけで追うな。心で見よ」(心法)でした。この仁斎のメッセージに出会って、昔、毎日新聞記者を経て、サンデー毎日記者として取材にあたっていた頃のことを思い出しました。新聞記事は、いつ(When)、どこで(Where)、だれが(Who)、何を(What)、どのように(How)、したのか、という5W1Hの原則に照らして、記事が書かれてゆきます。新聞記事は、事実を中心とした出来事の記述ですから、この原則を淡々と描き込むことが基本ですが、雑誌の場合は出来事の背景から登場人物の心理描写などかなり長い文を書くことが求められます。
出来事が遠方で締め切りが迫っているときには、対象となる人物に直接電話をかけ、電話取材だけで仕上げなければならないときも出てきます。顔を合わせずに話を聞くのはなかなか難しく、最初の一言で電話を切られてしまうことも珍しくありませんから、切り出しから、出来事の核心に入るための繋ぎ、そして本題と、事の次第を聞き出して行くのが大事な仕事の一つでした。
お互いが声だけでつながっている状態の中で、1時間を超えるインタビューを続けるために取材者に求められるのは相手に対する「共感」しかありません。心と心がつながって初めて、相手の心の奥に潜んでいたもろもろの感情や感覚が表面化してきます。老荘の思想だったか、「耳で聞くな、気で聞け」なる言葉があります。電話線を通じて伝わってくるのはお互いに物理的な「音声」に過ぎず、その音声の奥に潜むXを聞き取ろうとすると、まさに「気」で聞く姿勢が必要なのです。
「気」は「気づき」に通じ、「気遣い」に通じます。相手の気持ちの微妙な動きに「気づき」、それを「気遣う」ことによって、初めて「本音」を引き出すことが可能になります。
仁斎が見出した「心で読め」は、実は「気で読む」ことではないでしょうか。『論語』の字面の奥にある本質的な「何か」に「気づく」ことによって、初めて文意の奥が見えてくると思うのです。
随筆「人形」において小林秀雄や女子大生が示した最初の心の動きは、目の前の風景の持つ「意味」への気づきにほかならなかったのではないでしょうか。何のことはない、学問とは何の関係もない日常の風景でさえ、伊藤仁斎の見出した「目で見るな。心で見よ」原理が働いていたのです。