3、AIは哲学することができるか

 前回は、野村萬歳の伝統的な「型」論議と、近藤良平の出会いから生れる瞬間の「型」について、皆さんからさまざまな声をもらいました。

 「碁を指す手の動きだけで、相手の実力がわかる」「二人とも、型や仕草に自分を練りこんでいる。私たちは、日常のなかで仕草に自分を練りこんでいるのではないか」「型の解釈によって個性がでてくる。それを出すのが技ではないか」「プラトンの薄っぺらな芸術論には大いに異議がある」「型に命を入れることによって動きが生れるとの考えは、絵画における気韻生動そのものではないか」「合気道には試合がなく、二人で型をやる。何も考えないで型が出てくる。投げられるほうでも型が出来てくる」

 「哲学がテクネーならば、型があるのではないか。それはなんだろうか、と」「萬歳と近藤の型論は、たすぎがけの関係ではないか」「AIのディープラーニングは、何十万件の人間の手を真似して、新しい打ち手を考える人間の直感と同じものだそうですね」「人間の仕草そのものも、型に通じる」
 
 今回用にお配りしているプラトンの対話篇「イオン」は、吟遊詩人イオンとソクラテスとの芸術談義、とくに最高の表現は「神がかり」のときにしか生れないのかどうか、をテーマとしています。イオンは、詩人としての自分の技量(表現媒体の知識と表現の技)を自慢しますが、ソクラテスは彼の技量の底の浅さを指摘し、彼がホメロスを吟じるときだけに名人の領域になるのは、ホメロスの作品そのものが「神の領域」にあるからだ、と結論するのです。

 この対話篇は、『法律(下)』において、「人間は、所詮は神の操り人形である」との言明につながるもので、芸術は神の物真似に過ぎないとするプラトンの芸術論の骨子を提供しています。
 
 医療の分野においても、考古学の分野においても、常人では為しえぬほどの技量(手術の巧みさや、遺物の発見術)を持った人は、「神の手」の持ち主として、畏敬の対象となります。しかし、どうなのでしょうか。「神技」も「神の手」も、実はその領域に達しているのは人間であり、それが「神の領域」にあるかどうかは、ほかならぬ「神のみぞ知る」ことでしょう。プラトンに言わせれば「技術の支配者は神」ということになるでしょう。

 「(AIの時代に)技術を支配するのは誰か」との科学史家・神里達博さんの問題提起(朝日新聞コラム)をお一人が引き受け、「AIと技術者の共存が問われています。AIとどんな社会を築くか、多角的に考えていく必要があると思います」と、さらなる問いを広げてくれました。そして
1、 技術者がそんざいするためには、知性、感性、知恵をもつことが必要だと思います。
2、 私たちは、技術に対する価値観を改めて考えてみることが求められています。
と、問題提起してくれています。

 さて、技術を支配するのは神なのか、それとも、人工知能なのか。あるいは、人間が巻き返して、AIや神を出し抜くことができるのか。

 お一人の問題提起「哲学に型があるかどうか」の問いは、「AIは哲学することができるか」の問いへと展開することにいたしましょう。