3,ディオニュソス的とは何か

 前回、ソクラテスの理性主義が、現代のウクライナの悲劇をも生んだのではないか、との話に対し、受講生から「あれは権力欲の行き着くところで、ソクラテスとは関係ないのではないか」とのコメントを頂戴しました。

 このご指摘で思い浮かぶのが、「意志の持ちようで現実が無化され、新しい現実が立ち現れる」とするショーペンハゥアー(1788~1860)の哲学です。「自己批評の試み三」で、「(まだ)知られていない神」ディオニュソスの使徒、とまで自身を名づけた(p.15)ニーチェの試みは、哲学の師とも言えるショーペンハウアーに負うていることを、今回は明らかに致しましょう。

 『悲劇の誕生』は「1 アポロ的夢幻とディオニュソス的陶酔」から始まります。ニーチェは、造形的芸術(美術)を「アポロ的」、非造形的芸術(音楽)を「ディオニュソス的」と名づけ、芸術を生み出す「衝動」であると考えました。そして、アポロ的衝動は「夢の世界」、ディオニュソス的衝動は「陶酔の世界」として、この二つの対立する衝動が、いわば夫婦となって結びつき、ギリシア悲劇が誕生した、と分析するのです。

 夢が描き出す「仮象」から、造形芸術家は人生を解釈し、夢の出来事によって実生活に対する修練を積む、とニーチェは言い、それは快適な好ましい影像だけでなく「厳粛なもの・陰鬱なもの・悲しいもの・暗いもの・思わぬ障害・偶然のいたずら・不安な期待」など、地獄編を含めたダンテの「神曲」全体が通り過ぎ「ともに生き、ともに悩む」、と解釈するのです(『悲劇の誕生』p.39)。

 プラトンに見るように、哲学的人間はこの現実界もまた一種の仮象なのだという予感を抱くものだとし、ショーペンハウアーの考えを引用して、このように「人間やすべての事物がときどきただの幻影か、あるいは夢のすがたと思われてくるような素質こそ」哲学的な能力のめじるしである(同)、とニーチェは説いています。

 この夢の経験が「喜び迎えられている」ことの表現がギリシア人の神「アポロ」にほかならない(p.40)、とニーチェは言います。そして、アポロ的人間とは、ショーペンハウアーの言う「個体化の原理」によって、どのような状況の中でも、「私は私である」と平然としていられる能天気な存在として、次の一文を引用するのです(P.41)。個体化の原理とは、時間と空間のことです。

 「荒れ狂う海の上で、舟人がか弱い小舟に身を託し手座っているように、個々の人間は苦患の世界のただ中に、個体化の原理を支えとし、これに信頼をおいて、平然として座っているのである」(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』正編Ⅱ、斎藤忍随他訳、白水社、p.308)

 ディオニュソス的興奮と陶酔は、平然としていられるアポロ的世界から「途方もない戦慄的恐怖」と「歓喜あふれる恍惚感」、すなわち一種の「狂気」へと導く、とニーチェは断じます(p.42)。

 「権力の亡者」プーチンは、いま、まさに、恍惚感と恐怖が同居する「狂気錯乱」の状態にあるのではないでしょうか。