3,私は戦闘的である

 NHKの朝ドラ「ちむどんどん」で、「私の立つところをどこまでも掘れ」の話をしましたが、どこまで掘るのか、思い出せないままでした。先日、この番組が終わり、「朝いち」で振り返りをしたのですが、そのとき、またこのニーチェの名言場面が放映されました。それで、ようやく思い出したので紹介します。「そこに必ず泉がある」でした。やはりなかなか、の名言ですね。

 さて今日も、ニーチェのニーチェらしさを存分に発揮する「私は戦闘的である」の部分です(『この人を見よ』七、新潮文庫、pp.34-36)。前回のルサンチマン(怨恨・復讐感情)が「弱さに属している」のに対し、「戦闘性」は「強さに属している」と主張し、またもや逆説的、いや、極めてニーチェ的な持論を展開するのです。

 今回も、ニーチェの「戦闘実践要項」四カ条(pp.35-36)の登場です。

1, 相手が勝ち誇っている事柄だけに戦いを挑む。
2, 自分が孤立し、危険に曝されているときにだけ戦う。
3, 決して個人を攻撃しない。
4, 攻撃は感謝の印であり、嫌な目に合ったとか合わないとかで攻撃はしない。

 何というカッコ良さ、まるでニーチェは「勧善懲悪」の漫画のヒーロー、あるいは自己演出・興行的なプロレスラーに見えて来ませんか。「人の成長度を測るには、その人が自分よりどれくらい強力な敵を探しているか」であり、「戦闘的な哲学者は人間だけでなく、問題に対しても決闘を挑むものだ」と豪語するニーチェは、敵と対等であることが決闘の条件、とまで言うのです。

 その敵の相手について明確に語っているのが、「徹底して、好戦的」と呼ぶ『反時代的考察』(小倉志祥訳、ちくま学芸文庫)です。反時代的とは、時代の流れに抗することで、当時のドイツ的教養が「非人間化した歯車とメカニズムによって、人格の不在と分業の名のもとの節約経済のために、生が病んでいる」(pp.115-116)状態に陥っている、と強烈に指弾し、それを打ち破るものとして「我執の心」と「自己陶冶」の心をあげるのです(『この人を見よ』「反時代的考察」一、p.116)。

 反時代的タイプの人間として、ニーチェがあげるのがおなじみのショーペンハウアーとワーグナーであり、「一語でいえば、ニーチェ…」(p.116)とのたまうのですか、まあ、なんという自己陶酔でしょうね。これだけ、自分を誉めることができるのだから、つい自信を失いがちな現代人からすれば、喝采を叫びたくなるのでしょう。

 ニーチェが「生が病んでいる」と表現した当時のドイツの状況=「非人間化した歯車とメカニズムによって、人格の不在と分業の名のもとの節約経済」は、どこか日本の現在と重なりませんか。リスキリングなどという言葉で政府は1兆円もの資金を投入しようとしていますが、日本の現状について皆さんの分析をお聞かせ願いましょう。