4 ザルツブルグ 2
モーツァルトはザルツブルグを嫌っていました。なぜでしょうか。その生地は皮肉にも「ザルツブルク音楽祭」で象徴される「モーツァルトの街」として栄えています。音楽祭をサカナに、モーツァルの心を解剖してみましょう。
★資料:モーツァルト・ディナーコンサート映像「ドン・ジョヴァンニ」など
:ザルツブルク音楽祭風景

モーツァルトが生まれ故郷であるザルツブルグを嫌っていた理由には、もちろん大司教コロレドとの確執もあるでしょうが、どうもそれだけではなさそうです。彼の手紙を読んでいくと、ザルツブルグの古い体質、とくに「ザルツブルグ人」そのものに対して、彼が強い幻滅を感じていたことがよくわかります。彼は親しい知人のブリンガー師に対して「最愛の友よ、ぼくにとってどんなにザルツブルグが嫌悪すべきところか、あなたにはおわかりでしょう! たんにぼくの愛する父とぼくが、あそこで堪えてきた不遇のためではありません。その点だけでもすでに、あのような土地を完全に忘れ去り、思い出のなかから完全に抹殺するに充分ではありますが!」と書いたあと、ザルツブルグの住民のことを「Fexen」(馬鹿者)と呼び、「F」を「H」に変えて「Hexen」(魔法、魔女)にでもしなければ、ザルツブルグは変わらない、とまで言っているのです(1778年8月7日 パリからの手紙)
とくに、ザルツブルクでは音楽にかかわる人たちがまったく尊敬されていない、ことをあげ、「なにも聴くものがありません。劇場もなければ、オペラハウスもありません!―もし本当にオペラを上演しようとしても、一体だれが歌えるでしょうか」と不満を漏らしています(同)。それから2か月後の父レオポルトあての手紙では「ザルツブルグでは、自分が何者なのかわからなくなります。-ぼくはすべてであり、そしてときにはまったくの無です」とまで書くのです(1778年10月15日 ストラスブールより)。
モーツァルトはオペラが書きたかったのです!

夏のザルツブルグ音楽祭は、1887年に指揮者のハンス・リヒターが提唱し、その後の紆余曲折を経て、1920年に現在第一回の音楽祭が開かれました。演出家のマックス・ラインハルトと作家のフーゴ・フォン・ホーフマンスタールが中心となって初期の音楽祭を盛り上げた関係で、舞台演劇が主役でのスタートでした。金儲けに汲々としている主人公を神が死神を送って成仏(?)させるホーフマンスタールの「イエーダーマン」は(英語のエブリマン)、音楽祭の幕開けを告げる演劇として定着しています。
「モーツァルト没後200年祭」(1991)と「モーツァルト生誕250年祭」(2006)では、モーツァルトのすべてのオペラが上演されました。