4、アリストテレス「富は単に何かに役立つに過ぎない」

 所得と富は、人の優位性(advantage)を判断するには不適切な指標であるということは、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』でもはっきりと論じられている。「富は明らかに我々が追求している善ではない。なぜなら、それは単に他の何かのために役に立つものに過ぎないからである」                        
               (アマルティア・セン『正義のアイデア』p.365)

 前回は、受講生の一人が松元雅和『平和主義とは何か―政治哲学で考える戦争と平和』(中公新書、2013)を取り上げ、「非暴力の帰結主義的論拠」の章について紹介してくれました。帰結主義は、16世紀の人文主義者エラスムスに遡る考え方で、ある行為や決定が正しいかどうかを、それがもたらす結果によって判定するものです。たとえば、戦争におけるさまざまな犠牲や苦痛を考えれば、それがどれほど正しいと考えられても、いかなる平和にも及ばないことは確実である、とする考え方です。前回の「大きな正義」と「小さな正義」の話に当てはめると、目の前の犠牲がどれほど悲惨であっても、最後にもたらされる安定と平和がより善いと判断されるならば、クリシュナの「大きな正義」のほうが帰結主義的には軍配があがることになります。

 帰結主義は、一見うまい考え方ですが、第二次世界大戦における米軍の原爆投下が、「人類の未来にとってみれば正しかった」とするような考え方につながることを懸念する声があがりました。また、クリシュナの「私たちの肉体は幻影である」とする考え方に対して、親しい人の死を体験したばかりの受講生から、強い抵抗の言葉があがりました。

 今回は、「第11章 暮らし、自由、ケイパビリティ」と「第12章 ケイパビリティと資源」の項に入ります。同じ人間としてこの地球上に生まれながら、どの時代のどこに生まれたかで、私たちはまったく別の人生を歩みます。パスカルは、「私が、なぜ、いま、ここにいるのか」の問いに悩み続けました(『パンセ』)。『フィガロの結婚』(ボーマルシェ)のフィガロが「おぎゃあと生まれた定めでもって、一人は王様、他は羊飼い。その隔たりはただの偶然」と口上を述べたように、生まれの違いは、ときに大変な不平等をもたらします。

 貧困、圧制、差別、ツァラトゥストラに訴えたせむしに象徴される身体の不自由、老化、経済格差から就職など、誰もがそれなりの「不自由」をかかえていると言えるでしょう。その不自由を克服して自由を得る力を、センは「ケイパビリティ」(「潜在能力」と訳される)と呼びます(参考:セン『不平等の再検討―潜在能力と自由』池本幸生他訳、岩波書店、1999.7)。もともとは、経済分野で企業が成果をあげるための「組織力」のことを指し、「ケイパビリティ・マネジメント」の名で経営者が競争を勝ち抜くための戦略論としてもてはやされたものです。

 アリストテレスの言葉は、富が必ずしも私たちに自由をもたらしてくれるとは限らないことの意味で、センは引用しているのです。どんなにお金があってもできないことがあり、お金がなくてもできることはたくさんあります。さまざまな不平等を解決するために、どんな「ケイパビリティ」が求められるのか、16歳のパキスタン少女マララ・ユサフザイさんの国連演説「1本のペンで世界が変わる」(2013.7.12)を参考に、ご一緒に考えませんか?