4、デカルトと梅若玄祥からイデアを考える

 今回は、プラトンの『国家』を長澤信壽訳注の対訳本(東海大学出版会、1970年3月)を使って、第三巻401a-403cの部分を読んでいきました。ギリシア語に堪能な受講生にその一部をギリシア語で朗読してもらったあと、いつものように順番に日本訳を読み進めていきました。今回の対訳本は、テクストとして使用してきた藤沢訳の岩波文庫版と比べると、μουσικήムーシケーの訳が決定的に異なっています。藤沢訳が「音楽・文芸」としているのに対し、長澤訳は「音楽」に特化しているのです。
 
 これはプラトン研究者の一人Adamアダムによっているようで、注釈にもアダムからの解説が多く見られます。とくに注目したいのは、『パイドン』(61a)にあるソクラテスの言葉「φιλοσοφία μεγίστη μουσική」を、「愛智は最大の音楽である」と訳していることです(同対訳書注釈8、540頁)。ここはたとえば、田中美知太郎責任編集の「世界の名著6」『プラトンⅠ』(中央公論社、昭和53年4月)の『パイドン』(池田美恵訳)では「哲学は最大の文芸」(同書497頁)と訳されており、逆に「音楽」が消えてしまっています。

 ホメロスのような叙事詩から酒神頌歌(ディトゥラムポス)のような合唱・輪舞歌に至るまで、基本的には詩と音楽が一体になっているといえる古代ギリシア文芸の性格からすると、「音楽」か「文芸」に偏った訳語は、言葉のもつ多層性・多重性を隠してしまうことになるでしょう。ただ、パイドンの箇所は、ソクラテスがイソップの物語をモデルとした詩を書いたことがあることに対する弟子の質問のなかに登場するので、池田美恵訳は「文芸」としたのかも知れません。お一人が、ある本から「幅広い教養ととるのが正解なのではないか、とあります」と紹介してくれました。これも、有効な見方だと思います。

 2の付記 「それであるところのもの」とイデア 2014.10.21で、旭酒造(山口県)の日本酒「獺祭」を例に引きましたが、「どれだけコメを削るのか、に加えて、その土地の酵母の違いなど多様な条件が関係してお酒の味が決まって来るのではないでしょうか」とお一人。「味は感覚的なもので、それを作り上げるレシピをイデアに擬せるのはいかがなものでしょうか」と別のお一人。これに対して「イデアは見たり触ったりできないので、それを現象界で現出させることがイデアの存在化(現実化)ではないか」と私。感覚で表現されたもの、たとえば、モナ・リザの美を目の見えないひとに、どう表現したらよいのか。画家でもある受講生が、ご自身の作品を目の見えない人に文章で表現するボランティアの人が感じる困難を、紹介してくれました。

 会食の場で、お一人が「西洋哲学は論理的だというが、デカルトの『われ思う故にわれ在り』やニーチェの『永劫回帰』のどこが論理か。単なるアイデアではないか。西洋も東洋も、アイデアから始まるのだから、哲学が論理的かどうかは関係がない」と発言。アイデアとはイデアですものね。別の受講生は、人間国宝の能楽師・梅若玄祥(うめわかげんしょう)の演技にゾクゾクっとした話を、情熱を込めて話してくれました。玄祥は、「古典を化石にせず、生きた古典にしたい」という名言を語っています(2014.8.29東京新聞http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/tradition/CK2014082902000202.html)。

 このお二人の話を種に、次回ではイデアのことをさらに一歩先へと探究していきたいと思います。