4、ホイットニーの「コットン・ジン」

 コットン・ジン(cotton gin)は、綿繰り機のことです。Cottonが綿、ginはengineの略です。手でハンドルを回して綿から種だけを手前に落とし、綿の繊維部分を分離していく仕組みで、アメリカが独立して10年後の1793年にホイットニー(1765-1825)が発明しました。

 人の手で種を取らなければならなかったそれまでに比べると、作業効率が50倍とか100倍に増大し、手工業に過ぎなかった綿産業の世界に一大革命をもたらしたのです。アメリカの綿はヨーロッパやイギリスで盛んになってきた綿織物産業用に輸出され、ホイットニーが綿繰り機を発明した1793年に230トンに過ぎなかった木綿の輸出量は、17年後の1810年には4万2000トンにまで飛躍的に増大することになります。
 
 小さな揺らぎが、時空を超えて大きな影響を与えることを「バタフライ効果」と呼びます。南米の蝶が羽ばたくと、その微妙なエネルギーによってやがて太平洋上で台風が発生し、日本に甚大な被害をもたらすー大げさに言うと、これがバタフライ効果です。

 自動紡績機や蒸気機関の実用化が綿織物産業の発展を促し、産業構造の変革が18世紀半ばから19世紀にかけて起こった「産業革命」と呼ばれることは、私たちも教科書で知るところです。人の作業の軽減につながった綿繰り機ですが、綿需要の飛躍的増大が、より多くの奴隷を必要とするようになり、奴隷制の固定化とやがては南北戦争(1861-1865)の遠因になったとすれば、なかなか皮肉な話ですね。

 自分の発明が富をもたらすと信じていたホイットニーの思惑に反して、いまなら通信販売で5,000円も出せば手に入る「綿繰り機」は、仕組みがの単純さのために農園主が勝手に作ってしまい、想定していた「金儲け」にはつながりませんでした。しかし、ホイットニーの発明は、イギリスに中産階級を生み出す力となり、コーヒーハウスの出現など人々のライフスタイルを大きく変える「生活革命」を促すことになったのです。

 「綿繰り機」が、時空を超えて世界経済の構造に巨大な変革を促した「バタフライ」だったことは、マハトマ・ガンディーの言葉が良く示しています。

 インドの労働者が一日7セントのの賃金で摘んだ綿花を、イギリス人が独占的に購入する。イギリスの船に積み込まれてイギリスに運ばれた綿花はこの過程で少なくとも倍になる。綿花はイギリスの工場で綿織物にされ、労働者の賃金や工場建設や機械への支払いなど、利益はイギリスに落ちる。綿製品は船でインドに運ばれるが、賃金を得る船長や船員はすべてイギリス人で、インド人は船上の汚れ仕事を1日数セントで担う下働きだけである。インドに運ばれた綿織物を買うのは、王族や地主であり、それは貧しい小作農を1日7セントで働かせて得たものである。

 現代において綿繰り機は、コットン・ピッカーと呼ばれる巨大マシンに変貌し、
広大な農場でまるでバリカンで頭を刈り取るように、大地から綿花を収穫し、機械の内部で種を取り、綿花のかたまりのロールにまで仕上げてしまいます。
 簡単な綿繰り機とコットン・ピッカーの双方を見てもらいましょう。その違いに注目です。

綿繰り機
とても簡単な綿繰り機

コットン・ピッカーの綿繰り風景
コットン・ピッカーの綿繰り風景

 
 参考までに、「楽農一家」の名で家庭菜園を楽しんでいる大阪人のブログから、綿の栽培から綿繰りまでを体験することにします。

http://lakunou.osakazine.net/ (2010.1.8、2010.4.2、2012.9.22)

 彼らは、白・茶色のアジア綿と緑色の西洋綿の三種類を栽培し、近くの歴史民族資料展示室にある手回し綿繰り機を借りて種を落とす作業をレポートしています(2010年4月2日)。二本のローラーを手で回しながら綿を入れていくと、種が手前に落ちる素朴な綿繰り機です。一種類の綿に一台を使って種落としをしましたが、なんとすべての種を取るまでに「お昼休憩を挟んで四時間」もかかったそうです。収穫後の綿と種の重さを測ってみると

アジア綿(白)…綿94g 種312g
アジア綿(茶)…綿29g 種69g
西洋綿(緑) …綿28g  種86g

 だったそうです。収穫した綿に比べて、種の重さが際立っていますね。ホイットニーの時代、きっと奴隷たちも同じような作業を日々、繰り返していたに違いありません。この種は、翌年の種まきに使ったのでしょうね。
 「楽農一家」は、2年後に、市販の綿繰り機を購入したそうです。