4、モーツァルトの分身としてのフィガロ

 ボーマルシェによる『フィガロの結婚』の原作には、「おぎゃあと生まれた定めでもって、ひとりは王様、他は羊飼い。その隔たりはただの偶然。才覚だけがすべてを変える」と、生まれにより人生が決まってしまう身分制社会への強烈な批判が書かれています。モーツァルトとダ・ポンテはこの部分を取り上げていませんが、オペラ『フィガロの結婚』には、愛をめぐるドタバタ喜劇の装いのなかに、こうした社会への批判がスパイスのように塗り込まれています。

 コロレド大司教の扱いに憤懣やるかたないモーツァルトは、ウイーンでの滞在中にとうとう辞表をたたきつけることになりました。モーツァルの手紙によると、大司教は「ろくでなし」「がき」「ばか」と最大級に侮辱・罵倒し、「とっとと消え失せろ」と叫んだことになっています。モーツァルトはじっと耐えて口をつぐんでいたそうですが、次の会談で「おまえみたいなだらしのない若僧は見たことがないーお前みたいに勤めのおろそかな奴はいないぞ。-今日中に発つならいいが、さもなければ国元へ手紙を書いて、<給料>を没収する」と言われ、「ぼくももう、あんたに用はありません」と尻をまくって出て行きます(以上、父・レオポルトへの手紙。1781年5月9日)。

 「ぼくは自分が召使いであるとは知りませんでした」とモーツァルトは述懐していますが、当時の身分社会から判断すると、コロレドの怒りの方がもっともだったかもしれません。さらにモーツァルトは、「ぼくは毎朝、数時間、控えの間でのらくらしているべきだったのです。-顔を出すように、たしかに何度か言われたことはありました。-でも、それがぼくの勤めだなんて、一度も思ったことはありませんでした」とも付け加えています(ともに1781年5月12日、父宛の手紙)。モーツァルトといえども、音楽家はザルツブルク宮廷に勤める召使いクラスの下級職員で、毎日出勤し、召使いたちと一緒に食事するなど、お勤めに励むのが常識だったのです。父親に連れられて、皇帝一家や貴族たちと食事をするのが当たり前だったモーツァルトは、自分のおかれた立場をまったく理解していなかったのです。

 衝突の現場にいた近侍たちは「モーツァルト、あなたは正しい。大司教は、あなたを乞食のようにあしらったのだから」とモーツァルトに同情したように彼の手紙(父宛・1781年5月12日)には書かれていますが、さあ、どうでしょうか。モーツァルト問題の処理を担当し、最後にはモーツァルトの尻を蹴飛ばして怒ったアルコ伯爵は、「私自身だって、ときどき不愉快な言葉を呑み込まなければならないことがあるとは思わないか」とモーツァルトに話したと言います(1781年6月2日。父宛の手紙)。宮廷の人間たちは、多かれ少なかれその組織の中で仮面をかぶって生きています。「ロバの皮」の逸話を歌うバジリオのアリア「未熟な年頃には」は、そのような人たちの心の内(ある種の召使いの悟り)が見事に表現されていると言えるでしょう。

 召使いの怒りを代表するフィガロのアリア「もしも踊りをなさりたければ」と、逆に領主の怒りを表した伯爵「わしがため息をついている間に召使いが…」も聴いてみましょう。