4、モーツァルト一家の旅行術

       「結局、残ったのは大きな借金だけだった」

 モーツァルトは2年半のザルツブルク滞在のあと、いったんザルツブルク大司教下の奉職を辞し、母とともにミュンヘンを経てマンハイムとパリへの大旅行に出ました。1777年9月から1778年12月までのおよそ1年3か月の間に、父・レオポルトとモーツァルト母子との間に交わされた手紙から、モーツァルト家の旅行術とも言えるさまざまな工夫について今回は見ていきます。
 6歳で始まったモーツァルトの旅は、ときには一家全員で、ときには父・姉と、ときには一人で、ときには妻コンスタンツェと、訪れたヨーロッパの都市は、8か国75都市にのぼることは、
 
★平成24年度SOAⅡ期しゃべり場「モーツァルト」Ⅱ-手紙とともに楽しむ天才の旅と音楽 2012.10~12

 で触れました。
 そのときにも紹介した旅の概要を、ここでもあげておきます。

ミュンヘン小旅行(1762)      父・姉と(3週間)
第一回ウイーン旅行(1762-1763)  一家で(~3か月)
西方への大旅行(1763-1766)    一家・従僕と(最長の3年6か月)
第二回ウイーン旅行(1767-1769)  一家・従僕と (1年4か月)
第一回イタリア旅行(1769-1771)   父と(1年4か月)
第二回イタリア旅行(1771)      父と (4か月)
第三回イタリア旅行(1772-1773)  父と (6か月)
第三回ウイーン旅行(1773) 父と (2か月)
ミュンヘン旅行(1774-1775) 父・姉と (~3か月)
  (ザルツブルク定住1775.3~1777.9 約2年半)
ミュンヘン・アウグスブルク小旅行(1777.9-10) 母と(2週間)
マンハイム・パリ旅行(1777-1778)  母と(7か月)、一人で(3か月)
ミュンヘン旅行(1778-1779)     一人で(2か月)
 (ザルツブルク在住1779.1-1780.11)
ミュンヘン旅行(1780-1781)      一人で(3か月)
(1781.3.16~ウイーン定住)
プラハ旅行(1787)          妻と2回(計2か月ぐらい)
 ①1787.1.8~2.12     『フィガロの結婚』にからんで
 ②1787.10.1~11.16頃   『ドン・ジョヴァンニ』にからんで
北方への旅(1789) 一人で(4か月)
フランクフルトへの旅(1790) 一人で(1か月半)

 母と二人のミュンヘン・マンハイム・パリ旅行は、父親が企画した求職旅行でしたが、思惑がはずれて父自身は同行できず、やむをえず旅慣れない母との二人旅となりました。結果としてこの旅は実質的に失敗に終わり、母マリア・アンナがパリで亡くなるという不幸に見舞われただけでなく、父の年収(450フローリン)のおよそ2倍近い860フローリンにのぼる借金が父・レオポルトの肩に残るだけとなりました。
 この時期の手紙から、当時の時代の旅の様子が手に取るように見えてきます。レオポルトは、旅先のモーツァルトが金銭についてあまりにも鷹揚であることにじれ、最後には「借金を背負ったまま死にたくない」と絶叫調になっていきます。

 モーツァルト一家は、1762年のウイーン旅行の際、拝謁した皇帝フランツ1世から、100ドゥカーテン(約500フローリン)を頂戴しています。そのうちのおそよ100フローリンで、四席の箱型馬車を購入することができました。いまでいえば、自家用車を買ったわけで、一家四人全員の西方への大旅行(1763-1766)はこの馬車を使いました。今回のマンハイム・パリ旅行でもこの馬車で出かけたのですが、パリまで送ってくれた馬車屋に送迎込みで81フローリンで売り渡すことになります。 

 参考までに、ある研究によると、ほぼ同じころ(1785年)のウイーンにおける中産階級の男性ひとりの年間生活費は、464フローリンだとか。この生活費は、住居費、薪代金、蝋燭代金、冬用衣装、夏用衣装、礼服、下着類、食費、召使のサービス料、散髪料金の合計だそうです(オットー・ビーバー「モーツァルト時代のヴィーンのコンサート・ライフ」:海老沢敏編『モーツァルト探究』中央公論社、p.68)

 モーツァルトの父レオポルトの年収は、ほぼウイーンの中産階級の男性一人分ということになります。ザルツブルクは、ウイーンに比べればずっと田舎ですから、生活費はずっと少なかったでしょうが、家族4人が食べていったのですから、豊かな生活だったとは言えないでしょう。その年収分相当の御下賜金をポンと皇帝がくれてしまうのにも驚きますが、14か月のマンハイム・パリ旅行でモーツァルトが作った借金が、その年収の2倍近いのでは、レオポルトが真っ青になるのも無理はないのでしょうね。

 次回は、レオポルトが借金返済のために考えたウルトラCについても触れる予定です。
お楽しみに。

★以下は、父子の手紙からの抜粋です。

「特に注意してほしいのは、マンハイムを発つ前に、トランクと小長持ちの上に貼り紙かカードを一枚しっかりと貼りつけさせ、その上にW・A・M、ないしフルネームで、ヴォルフガング・アマデー・モーツァルト殿と書くのです。そうすれば、突発的な事故に対して万事書き出されているので、神様が防いで下さるだろう厄介な自己のときに、なんでも尋ね当てることができます」(ザルツブルグの父・レオポルトより。マンハイムの息子へ。1778年2月28日、3月1日および2日))
「ぼくらにはたくさんのこまごましたものがあって、ぼくらの(馬車の)座席にならとても都合よくつめ込むことができますが、乗合馬車だとそうするわけにはいきません。それに、ぼくらは二人きりで、気楽におしゃべりができます。ぼくは断言してもいいのですが、もしぼくらが乗合馬車で実際に行った場合、いちばんの気がかりは、思ったこと、折にふれたことを語り合えない悲しさです」(マンハイム。ザルツブルクの父へ。1778年3月11日)
「その幌つき馬車がガタガタだったり、車輪や、たとえば車軸にでも悪いところがあれば、しょっちゅうどこかがこわれ、路上に立ち往生し、疲労困憊し、修理もさせなくてはならず、それにどこかに留めておいたり、修理をしたりするのに、そのがらくたそのものよりもお金がかかることになるはずです。かてて加えて、パリにはたぶん貸馬車の御者として行ってくれる者はだれもいないか、いてもほんのわずかです。それに自分自身の馬車でも持てば、馬をつなぐだけでも、もっと費用をたくさん払わねばなりません。だって帰りの車には誰も乗ってはこないので、帰りの馬車として一文も儲からず、車をつけずに空の馬で帰ってこなければならないからです」(ザルツブルクの父より、パリのモーツァルトへ。1778年9月24日)
「要するにだ!私はおまえのために恥をかき、借金を負ったままでは絶対に死にたくはない。ましてや、おまえのかわいそうな姉さんを惨めな状態で残して行きたくはないのだ。―おまえだって私同様、神さまがいつまでおまえを生かしておいてくれるものか、知ってはいないのです。おまえが十四か月の間に私に借金させた金額が―八六三フローリン。…私は自分と自分の子供たちの名誉に細心の注意を払わなければなりません。八六三フローリンは返済しなければならないのです。どんな甘言も信じてしまうおまえより、私のほうがずっとうまく計画を立てるのを心得ているのです。私はその借金を二年後には返済できると考えています。でも私ひとりでは返済できません」(ザルツブルクの父からマンハイムのモーツァルトへ。1778年11月19日)