4、三種類の善と正義

 前回、一人の受講生がこんなことを話してくれました。「どのようなところでソクラテスたちは対話を進めていたのだろうか、と思いながら『国家』を読んでいます。青空の下なのか、それとも館の中なのか、あるいは広場のような雑踏の中なのか、興味が尽きません」に、なるほどと思います。プラトンはもともと詩人だったのですから、対話篇にも風景描写があって不思議ではないですね。皆さん方から「城はなかったのか」「神殿のなかに神像はあったのか」といった疑問も寄せられ、当時のアテナイがいかなる空間であったのか、についての関心の強さを感じさせられます。

 『国家』の舞台は、資産家ケパロスの息子ポレマルコスの家で、ふとんつきの椅子とでもいったようなものに腰をおろしていたケパロス」のそばに、「円形に並べて置かれてあった」椅子に、ソクラテスも腰をおろして対話が始まります(328C。対話篇『プロタゴラス』には、対話の行われた金持ちのカリアス邸における邸内の様子が、ソフィストたちの動きとともに生き生きと描かれています(314C-316A)。

 対話篇『饗宴』では、悲劇大会で優勝したアガトン邸で寝椅子に横になって御馳走を食べながらの対話風景が活写(174A-176E)され、対話篇『パイドロス』では、プラタナスが鬱蒼と茂るイリソス川のほとりの神域で繰り返される対話が、美しくさわやかに描き出されています(229A-230E)。

 対話篇『カルミデス』のように、神殿前にあるパンクラテオン(レスリングと相撲を合わせたような格闘技)の学校が対話の場になっているものもあります(153A-154B)。アテナイの生活空間や神殿の様子が絵図をまじえてよく再現されているアシェット版『古代ギリシアの市民たち』(福井芳男・木村尚三郎訳、東京書籍)なども参考にしてください。

 第一巻は、目は見ることを、耳は聞くことを本来の<はたらき>として持っているように、魂はその本来の<はたらき>として「正しいことを行うこと」(正義の実践)を持っている、とソクラテスが締めくくり、「正しい人は幸福である、不正な人はみじめである」ことをトラシュマコスにしぶしぶ納得させるところで終わっています。今回の第二巻は、トラシュマコスとの議論に満足しないグラウコンが、代わってソクラテスに議論を吹きかけます。

 グラウコンは、「善」には次のような三種類があるとし、ソクラテスに「正義」はそのどれに属するのか、と問いかけます。

1、 単純に悦ぶことのように、それ自体で善いもの。
2、知恵をもつこと、ものを見ること、健康であること、など、それ自体でも善く、そこから生まれる結果の故にも善いもの。
3、身体の鍛錬、病気の治療、金儲け、など、それ自体のためでなく結果の故に善いもの。

 ソクラテスが「最も立派な種類の2」と答えると、グラウコンは、多くの人は報酬や評判、名声などのために正義を行うが、それ自体としては苦しいから避けるものと思われている、と反論していきます。

 この議論は、国家自体の正義論へと展開していくのですが、さて。