4、井上ひさしの『新釈 遠野物語』考

井上ひさし

 『遠野物語』の冒頭に「平地人を戦慄せしめよ」と書いている柳田国男は、巻頭に「此書を外国に在る人々に呈す」としたためました。平地人とは、柳田らの属する文化人であり、外国に在る人々とは外国に住む日本人というよりも、もっと大きな西洋文明人、とするのが正鵠を得ていると思います。

 「『遠野物語』の表と裏―柳田国男と井上ひさし」(R・A・モース、赤坂憲雄編『世界の中の柳田国男』藤原書店、pp.117-145)のなかでニューヨーク州立大学のクリストファー・ロビンスは、柳田時代の遠野地方について「『近代性の不気味な他者』であることが紛れもない本質として描き出される土地」であり、「時代に取り残された文化というイメージを」柳田の物語集は表現している、とアメリカの研究者の次の言葉を引用しています。
 
 「疑いもなく、柳田はこれらの物語を使って、いわば、強まる近代合理主義の影響力にも負けず完全な形で残存している俗信の地層の証拠として、この残存物が永続的な日本らしさと結びついていることを示そうとしたのである」(同p.118)
これこそ、まさしく「平地人」さらには「外国に住む人々」に対して伝えたかった柳田の言いたかったことそのものではないでしょうか。では「時代に取り残された文化」の住人とされた遠野の人たちは、『遠野物語』をどのように受け入れていたのでしょうか。

 東北出身(山形県東置賜郡川西町)の井上ひさしは、父親の蔵書にあった『遠野物語』に早くから接し、遠野にも近い母親の住む釜石市で医療事務者として働いていたこともあって、「遠野」に強い思い入れを持っていました。しかし井上は、「東北出身である私には、どうもこの名著に”収奪“という感じを抱いてしまう。地方の文化が中央に召しあげられたという気がする」と、のちに演劇評論家の扇田昭彦に吐露(『新釈 遠野物語』(新潮文庫、p.240)しているように、『遠野物語』に違和感を抱いていたのです。

 『新釈 遠野物語』は、柳田の語り手「話上手には非ざれども誠実なる人なり」の「佐々木喜善」と正反対の語り手「話上手だが、ずいぶんいんちき臭いところ」のある犬伏なる老人を登場させた、『遠野物語』をからかったとも言える作品です。「平地人の腹の皮をすこしはよじらせる働きをするだろう」と書き出し、『遠野物語』7話の山人にさらわれた娘の話を怖いパロディにした「鍋の中」から始まる話を、まずは直接お楽しみいただきましょう。

 ロビンズは、『遠野物語』の語り手の佐々木喜善について、井上が漏らしている次の述懐を引用していますが、これは読者も感じるある種の疑念への答えだと思います。

「もとの話を柳田国男に提供した佐々木喜善という人がかわいそうになりましてね。佐々木喜善は『また先生に取られる!』と言ったらしいですね。柳田国男のつてで何とか小説家になりたいんで、縁が切れない。だから会うとついおべっかを使って、こういう話がありました、と言って出してしまう。遠野あたりで…歩いていたときに、佐々木喜善というのは名家の息子ですから、時々その話が出るんです。東京の先生に全部吸い取れられて、その先生は有名になったけれど、ここの喜善さんはだめになっちゃった、とね」(『新釈 遠野物語』p.132)