4、人間こそが創造の究極目的である

 カントが常々主張してやまないこの命題「人間こそが創造の究極目的である」は、本当だろうか。

人間こそが創造の究極目的である
「ところで道徳的存在者としての人間(従ってまた世界におけるすべての理性的存在者)については、人間はなんのために(quem in finem)実在するのか、という問いはもはや無用である。人間の現実的存在は、それ自身のうちに最高の目的を含んでいる、そして彼は自分の力の及ぶ限り全自然をこの最高目的に従わせることができる、あるいは少なくともかかる目的に反して、彼自身を自然の影響に従わせることは断じて許されないのである。もし世界における物が、いずれもその実在に関して依存的存在者であるところから、目的に従ってはたらくような最高の原因を必要とするならば、人間こそ創造の究極目的である。人間が存在しないと、順次にいっそう高い目的に従属する目的の系列は、決して完結され得ないだろう。人間においてのみ、しかも道徳性の主体としての人間においてのみ、目的に関する無条件的な立法が見出され得る、そしてかかる立法こそ人間をして究極目的ー換言すれば、全自然が目的論的にそれに従属しているような目的たらしめるのである」
(p.142)

サブ・テクスト:マックス・ヴェーヴァー『権力と支配』(講談社学術文庫、pp.282-298)

ここでは、マックス・ヴェーヴァーの「合理化理論」を種に、システムの優越性について考えてみたい。人間社会は蓄積・肥大するさまざまな社会的負荷を処理するための集団システムとして、たとえば官僚制を編み出してきた。官僚制は、遠いエジプト時代に遡って、すでにナイル川の治水を処理する集団として存在したが、ヴェネチアのような名望家支配の都市国家においても存在したのである。
 官僚とは、人間が個としてではなく集団化することによって、物事の処理をスムースに進めるための必要が生み出した自己組織的な存在である、と言えるだろう。それは、マンションなどにおける自治体から、学校における父兄会、町内会のレベルにおいても、「業務を行う」集団として、必ず「存在化」される。官僚集団は、その業務を行うことによって、人々を支配する。人々は、業務の代行者に過ぎないはずの官僚群が、意図しないところにまで肥大化し、意図を越えた目的にまで業務を拡大させ、政治はおろか経済を含めた日常生活の隅々にまで、その「影響」が及んでいることを、やがて知らされるのである。
 官僚制なしで社会は維持できないというジレンマは、何を暗示しているのだろうか。この見えないシステムは、明らかに私たち人間の上位概念として存在する。人間社会にとって官僚が必然的・自然発生的に生れ出てくるものならば、「官僚制」というシステムは人間の次に登場する存在ということになる。とすれば人間は、創造の究極目的ではない。官僚制というシステムこそが、全自然をもその支配下に置く、究極の創造目的なのではないだろうか。