4、原因のない結果はないー充足理由律
楽園である男爵の城館を追い出されたカンディードは、いよいよ放浪の旅に出ます。最初に出くわしたのが、ブルガリア人の二人組みで、わけのわからないうちにブルガリア王のために乾杯をさせられたあと、監獄に引き立てられて、4000回の鞭打ちの刑に合い、と、大変な苦難へと突入します。カンディードは、世の中を知らない形而上学者の卵だと王に見なされ、恩赦を受けて解放されるのですが、そこでブルガリア王はアヴァール王と戦争を始めるのです。
ブルガリア王はプロイセンのフリードリッヒ2世(大王)、アヴァール王はフランスのルイ15世のもじりで、この戦争はプロシアがイギリスと組み、オーストリア、フランス、ロシア、スペイン、スエーデンと戦闘を始めた7年戦争(1754-1763)のパロディになっています。
バリバリの文芸寵児としてもてはやされたヴォルテールは、各国の王侯貴族に三顧の礼をもって迎えられ、フランス国王ルイ15世の侍従職を務めたあと、1750年6月にプロイセンのフリードリッヒ2世の招きでプロイセン宮廷の侍従となり、大王の詩を添削するなど文芸の友として多大なる厚遇を受けました。しかし結局、大王の不興を買う事件が発生し、1754年1月にパリやヴェルサイユから遠く離れた“辺境の地”スイス・ジュネーブ郊外に土地を買って「楽園館」と命名し、事実上の”隠居“生活に入っています。
しかし1755年11月1日、リスボンの大地震が起き、翌1756年5月17日に7年戦争が勃発し、それまでライプニッツの信者だったヴォルテールは、最善説に大きな疑問を抱くようになります。推定犠牲者が3万人を下らないリスボン大地震を前にして「されど、愛する子らに惜しみなく善を与え/かつまたその子らに悪をあまた降り注ぎ給うた/善意そのものの神なる存在を、どうして想像できようか」と、長編詩『リスボンの災厄に関する詩』をわずか数日で書き上げます(ヴォルテール『カンディード他五編』(岩波文庫、植田祐次訳、p.526訳者注)。
そして、それからわずか半年後に起きた7年戦争で、たくさんの人命が失われていくのを知り「すべては善である、すべてはこれまでになく善である。こうして、二、三十万の二本足の動物が一日五スーで殺し合うことになるのです。…あらゆる世界の中で最善の世界なんて、滑稽きわまります」と知人宛に書くまでになりました(同p.528)。
『カンディード』が生まれたのは7年戦争から2年半後の1759年1月15日のことでした。18世紀半ばの日雇い労働者の日当は1~2リーブル、20スーが1リーブルなので、こうした戦場に借り出された兵士たちは、日雇い労働者の四分の一の俸給で殺人ゲームに参加させられていたことになります。ちなみに貴族の年収は4万リーブル以上、王侯の年収は10万リーブル以上、と推定されています(『ヴォルテール 哲学コント集成(上)』植田祐次訳、国文社、p.297)。
これらの不条理が、ヴォルテールに『カンディード』を書かせたのは、間違いないところでしょう。今回の問いかけは、第三章のp.275にあるカンディードが発した「原因のない結果はありません」の言葉です。これは、ライプニッツの「充足理由律」の最も簡単な表現です。ヴォルテールがその回想録で持ち出しているラ・フォンテーヌの寓話(『ヴォルテール回想録』福鎌忠恕訳、中公クラシックスp.160)をもとに皆さんと論議しましょう。