4、善き政治とは何か、悪しき政治とは何か

        ―プラトンの政治哲学―

第六巻の七章~一〇章までを通読します。

 前回は、受講生のお一人が、ルソーの社会契約論から「市民は、選挙のときを除けば、奴隷である」のメッセージを引き出し、政治のなかで囲われているに等しい民主主義社会における市民の現実を描き出してくれました。もうお一人は、安保法制の流れの中で政治の圧力によって実質的に潰されそうな私たちの現状を問題にし、それに対する覚悟の有無を問いかけました。

 オックスフォード大学の政治理論学者デイヴィッド・ミラーは、その著書『政治哲学』(山岡龍・森達也訳、岩波書店)の冒頭に「政治哲学はなぜ必要なのか」の章をかかげ、イタリア・シエナ市庁舎内にかかげられたアンブロジオ・ロレンツェッティのフレスコ画「善き政治と悪しき政治の寓意」のことに触れています(pp.1-3)
★ロレンツェッティ『善き政治と悪しき政治の寓意』(伊・シエナ市庁舎)

画像の説明画像の説明善き政治の寓意

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悪しき政治の寓意
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 ミラーは、このフレスコ画が善き政治と悪しき政治の本性を表しているとし、二種類の統治が普通の人々の生活に与える影響を明らかにしている、と解説します。善き政治の画は、王座に座っている威厳のある統治者がいて、「勇気」「正義」「大度」「平和」「思慮」「節制」の六つの徳を示す人たちが左右でささえ、統治者の両手首につながっている長い紐が、その下の一群の市民を囲っています。

 この統治の様子が別のフレスコ画に描かれており、都市には秩序と富があり、田園では農民が土地を耕し収穫しています。「安全」を表象している翼のある人物が掲げている旗には「この共同体がこの女王を支持するかぎり、彼女が悪しき者からすべての力を奪ってくれるので、恐れを抱くことなくすべての人は自由に移動できるし、各人は地を耕し種をまくことができる」と書かれています。
 
 反対側にある悪しき政治を表すフレスコ画は、頭に角の生えた悪魔のような統治者が人民を支配しています。そこでは、「貪欲」「残酷」「自惚れ」といった悪徳に囲まれ、都市が軍隊の占領下にあって、荒れ地となった田園は幽霊のような軍隊の手によって荒廃しています。ここでは、「恐怖」を表す人物が次のような碑文を手に持っています。

「各人が自分自身の善だけを求めているので、この都市では「正義」が暴政に屈している。それゆえこの街道では、命の恐れを感ぜずに誰も通過することができない。なぜなら都市城門の内にも外にも強盗がいるからだ」

 この寓意画を見ると、プラトンが『法律』を書くに至ったその心根の内が透けて見える『第七書簡』の324B-326Dの告白(長坂公一訳、岩波書店、pp.108-113)を思い出さざるを得ません。

 民主政治の腐敗が少人数専制(30人政権)の暴政を生み、覆って再び訪れた民主制もまた、ソクラテスを死刑にするような衆愚政治と化した歴史の流れに、どうしようもなく抵抗できず「浮遊」せざるを得なかった現実にプラトンは苦悶し続けていました。その社会は、どちらにころんでもロレンツェッティ描くフレスコ画の「悪しき政治」が支配する社会であり、「貪欲」「残酷」「自惚れ」といった悪徳が横行し、ソクラテスが民主市民によって死刑になったことに象徴される「恐怖政治」のもとにあったのです。

 ミラーもまた、選挙のときだけ自由で、あとは鎖につながれた奴隷である民主政体の皮肉な状態を述べたルソーの言葉を引用(p.65)しています。「愚者」を意味する英語「idiot」がギリシア語の「idiotes」に由来し、それは「完全に私的な生活を送り都市国家の公的生活にまったく参加しない人を表す言葉だった。すると、自らの政治的知性を発揮できないかぎりにおいて、現代人のほとんどが愚者であることになる」とのミラーの指摘(p.65)は傾聴に値するでしょう。

 それはつまるところ、選挙のときにだけ意思表示をし、あとは自分が実質的には奴隷であることに気づかない政治的な無関心層と同義だからです。

 今回の『法律』の通読箇所において、プラトンはますます微に入り細に渡って、法を具体化するための絵図を描いて来ているように思えます。それは、政治のなかでからめとられ、どうしようもない苦渋を味わった若い時の体験をバネに、『国家』で提唱した理想論「哲人王による理想国家」の実現のために、

「善き政治とは何か」

 を“考えに考え抜いた”隙のない作品にほかならないのではないでしょうか

★次回:第六巻の一一章~一四章の通読。裁判を中心に取り上げます。