4、宗教は知性の壁を打ち破る

 前回は、アリストテレスの「人は生まれついた時から知ることを欲する」から、「知りたがり屋」が私たち人間の特徴であり、「驚き」が私たちに「これってなんだろう」「どうしてこうなのだろう」といった感興をもたらし、「知る」ことを促す、のが「哲学」、すなわち「愛知」(フィロ=知、を、ソフィア=愛する)の始まりである、とのアリストテレスの「知の定義」をまずは紹介しました。この「知」と「本能」が「エラン・ヴィタル」によって生命進化の途上で、もたらされた、とするのが、ベルクソンの基本的な考え方です。
 
 今回のテーマである「第二章 静的宗教」は、部分を扱う科学では生命の全体を扱うことはできない、と断じ、おとぎ噺や妖怪談など人間たちの「物語作成能力」が、宗教(静的宗教=自然宗教)を生む出す仕掛けであると、提示していきます。物語は個人が作る一つの創造的行為ですが、それが集団で共有され、「知性」による圧力的道徳に抵抗し、宗教となってある種の別な道徳を形づくることにベルクソンは注目するのです。
 
 物語の原初的な例として取り上げられるのが、人類学者のレヴィ・ブリュルが報告している南洋の未開部族に信じられている「マナ」や「ワカンダ」という魔術的な力です。ブリュルは「彼らは偶然を信ぜず、すべてを悪魔や呪いの仕業にする」と、未開人の心性を分析しています(p.178)。ベルクソンは「魔術は人間の心に満ちているある願望の外部化にほかならない」と言い(p.205)、この願望が作り出す物語が魔術であり、それが集団に共有されることによって、私たちの日常生活を支配する、というわけです。
 
 「知りたがること」から始まる知性は、「好奇心」となって科学を発展させてきました。しかし、未知の世界を見たいという欲求は、その先の危険に気づかないまま暴走する傾向を持っています。原爆・水爆を生み出した「核」開発は、その典型と言えるでしょう。こうした知の暴走を「物語作成能力」が防ぐ仕掛けとなって機能しているとベルクソンは言い、それを「潜勢的本能」(隠れている本能)と名づけ、知による人類解体を防御する「自然の反作用」(p.149)として働いている、と断じるのです。
 
 天狗や河童、座敷童子などの妖怪話に満ちている柳田国男の『遠野物語』には、山間地で起きる神隠しや山人幻覚の話がたくさん出てきます。山は危険に満ちた異界であり、登場する不可思議な物語は人々にその危険性を知らしめる役割をしていることを、ベルクソン理論は教えてくれている、と言えるでしょう。
 
 あれほど知を愛したソクラテスも、「してはいけない」ことのときには、神霊(ダイモーン)がストップをかけることで知られていました。その声は、ある行為が社会に対して災害を与えるようなときに限っていました。ソクラテスもまた、神霊が制止をうながすときには、社会に悪いことが起きるという「物語」を、無意識のうちに作っていたことになります。
 
 前回、「ベルクソンは究極の二元論者」と書いたところ、お一人から「物質も包含した生命エネルギーの持続を説くベルクソンは、むしろ一元論ではないか」とのご指摘をいただきました。「閉じた社会/開いた社会」「本能/知性」など、二元論を思わせるベルクソンの思考法がプラトン由来の「二分法(分割法)」によることを、次回に見ていきます。