4、故意に不善を為す者はいない(ソクラテスのテーゼ)

 前回は、シモーヌ・ヴェーユの「プラトンの神」解釈をめぐって、談論に花が咲きました。「尺度とされているプラトンの神は真理。恩寵によるヴェーユの神は人格神」「神々を多様な真理と置き換えれば、真理をあがめよ、とプラトンは言っているのではないか」「神が万物の尺度なら、神はひとつでなければならない」

 八巻冒頭の表現「365日、毎日少なくとも一人の役職者が…神々もしくはデーモンのために犠牲をささげる」(828B)との表現に疑問が出されました。毎日、役職者が犠牲になるなどということがあるのだろうか、と。まことに、そんなことがあったら大変です。
 これは、訳文が誤解を招きやすかったためで、「犠牲を捧げる」の原語θύω の意味は、正確には、「肉を焼いて神々への犠牲とする」「犠牲を献げて神を祭る」
なのです。したがって、毎日、その日の担当の役職者が、肉を焼いて神々への祈りと、奉納をする、ことが求められる、となります。

 「身体の内的なリズムを外在化したのが音楽。音楽は、生命のリズムといってよいのでは」と、生物学者・福岡伸一さんの一文も紹介されました(「音楽と生命のリズム」朝日新聞、2016.1.7)。そういえばプラトンは、祭祀における音曲の役割と重要性を『法律』のなかで何度も強調していました。
 
 今回は、第9巻の五章にある「不正な人は、確かに悪しき人でしょうが、その悪しき人は、不本意ながら悪しき者になっているのです」(860D)を取り上げたいと思います。簡単にいえば、誰も意図して悪いことはしない、となるこのテーゼは、プラトンのソクラテス対話篇のなかで、多様なシチュエーションのもとに展開されています。

「およそ知者ならば誰ひとりとして、世にみずからすすんで過ちをおかしたり、みずからすすんで醜く悪しき所行をなしたりする者がいるとは、決して考えないはずです」(『プロタゴラス』345D-E)

「不正を行うものはすべて心ならずもそれを行うのだ」(『ゴルギアス』509E)

「(悪いものであることを知らずに)善であると思って求めていたものが、実際には悪であったというだけのことではないか」(『メノン』77E)

「(正義をけなしている人も)自分が何をけなしているかを知らずにけなしているのだからね」(『国家』589C)

「誰にしても、好んで悪くなっているわけではない」(『ティマイオス』86D-E)
 
 これらは、「故意に不善を為す者はいない」と、短縮され、「ソクラテスのテーゼ」として知られているものです。ソクラテスはそれを信念とし、プラトンもまた、師のこのテーゼを信じていました。

 さて、みなさんはどう思いますか。談論いたしましょう。